栗本薫さんとぼくとの断絶
- 作者: 栗本薫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1981/12/01
- メディア: 文庫
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私の捉え方として、基本的なところに、
物語を読む、という行為の目的として、作者が込めたメッセージを受け取ることが、前提にある。
そして、それが重なると、そこから作者とはどんな考えを持った人なのか、を規定し、自分なりに理解しようとする。
しかし、実際に会ったこともない相手に対して、それで充分な理解を得られるわけではない。
時として、その不十分な理解が、逆に、作者が込めたメッセージを歪めてしまい、意味を通じなくさせてしまうことがある。
それは読者の資質や価値観によっても個人差の大きい部分ではあろうが。
私の場合、栗本薫さんの「神楽坂倶楽部」を読まなければ、どうだったのか、と、今でも、折に触れてそう思う。
どうしようもないことなんだけど。
私が、栗本さんの物語が根本的に読めなくなったきっかけの一つは、そこなんですよね
全ての人間に対して、その存在をあるがままの存在として認める。
それは一つの正しい姿勢。
だけど、それは、神の視点を持つからこそ、公正かつ正当で有り得る。
「お前は、こういう奴なんだ」
「お前は、ここにいるべきではない」
相手を、完全無欠の超越者と認めることが出来ればいい。
だけど、出来なければ、
「お前に、言われたくはないよ」
と、素直な感情として思ってしまうわけです。
自分の本質に対して指摘された場合、相手を認めることが出来なければ、
それが事実に近ければ近いほど、反感もきついものになってしまうでしょう。
ただ、そこで、だからといって、相手のことを「こいつはわかってない」と、ただ吐き捨ててしまうのはどうか、という話ですね。
認められなかった、ということから生じたストレスを発散させる。それは意味があるでしょう。
しかし、物語の作者もまた、一個人たる存在だと認識するならば、その言葉が何故発せられたのか、その理由が存在するわけなのですよね。
その意図は存在する。それを理解出来なければ、第三者から見れば、「お互い様」なんだ、という認識は持ちたいものだ、と思います。
作者の意図を一から十まで捉えなければいけない、と言っているわけではありません。
ただ、小説は、作者のメッセージが取り得た、目に見えるひとつの形であるわけです。 作者の意図を全く解することなく読み進むことは困難であるし、意味の薄い行為になると感じるのです。
他者の表現を読み取るためには、少なくとも、他者のルールの存在を認識することが必要になります。
ただ、ここには、極めて困難な問題が存在します。
誤認という問題。
栗本薫さんが、批判を受けるのは、あくまで彼女は神の、マクロの視点から物語を語ろうとしているのにも関わらず、あとがきで、あるいは「神楽坂倶楽部」で、彼女のミクロの視点を提示しているところにあると思うのです。
栗本さんが厳密にどんな意図を持って「神楽坂倶楽部」の更新を行っていたのかは、余人にはうかがい知れぬところです。
ただ、思ったことをただ正直に書き連ねている、という理解は、読み手側にすんなりと受け入れられるものでした。
その際に、栗本さんが自分の想いを、忠実に表現すればするほど、その表現をつなぎ合わせて、読み手の中に、栗本さんの像が規定されるわけです。
それはあくまで、栗本薫さんの表現から想起されるものであって、栗本薫さんの全てを表すものではない。読み手の側にもそれは理論的にはわかっているはず。少なくとも私はそう認識しています。
ただ、その上で、あの「神楽坂倶楽部」の膨大な記事を読み、その多くに、非常に関連性の高い事象を見つけるに当たり、それが栗本薫さんの本質と感じることを避けることは出来ませんでした。
そこに感じ取ってしまう栗本薫さんの本質と、実際の栗本さんの本質とのギャップ。
物語に作者のメッセージを読み取ろうとする読者にとって、
それが、余りに大きな壁となって立ちふさがるのです。
更に、もし、そのギャップを埋めた、あるいは無視することができた、栗本さんの本質に近いものを理解できたとしても、それは栗本さんのミクロの視点、なんですよね。
ミクロの視点、等身大の栗本さんを理解すればするほど、栗本さんが物語を語る上で、立場として取るマクロの視点との間にまた、ギャップが生まれてくるわけです。
読者の側が、普段からマクロの視点を意識している場合なら、そのギャップを越えることは比較的容易なのかもしれません。
しかし、普段からミクロの視点でのみ事象を捉えようとする読み手はこの世の中に多く存在します。
その視点から見れば、例えば、グインサーガの近刊の、物事をありのまま描写する、というスタンスは、主題の喪失と同義なんですよね。
グインサーガには物語のあらゆる要素が詰まっている。しかし、それは単なる描写の羅列であって、物語ではないのではないか。
私は、ヴィジュアルノベルゲームの「AIR」をこのうえなく好んでいます。
それはまさに、この物語のなかに、この地球という惑星(ほし)の全て、目に見えるものと見えないもの全てが詰まっている、と感じさせてくれるからです。
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だけど、「AIR」は同時に、
ストーリーがない。破綻している。あの終わりはない。意味がわからない。
というように、本当にさまざまなレベルで批判をされてもいます。
そして、その批判については、後期グインサーガに向けられるものに、似通った点が多くあると感じます。
たまたま私は、麻枝准という作者を意識せずに「AIR」の世界を捉えることが出来た、というのが幸せだったのかもしれません。
ただ、栗本薫さんという作者を、過剰に認識してしまった。
それが、私や、似たような感覚を持つ読者の方にとって、あまりにも不幸なことだったと言えるかもしれません。
かつてのグイン・サーガは、そういうミクロの視点に偏った読み方をする者にとっても、マクロの存在を自然に認識させてくれるものだった。
栗本薫さんは、神の視点を、神ならぬ私たち、その視点の存在を意識しないもの達にも、自然に付与してくれました。
そんな優しい女神でした。優しい巫女でした。
その恩恵が当たり前のように続くと感じてしまったことは、やはり不幸だったのでしょう。
猫目石のラストに思い知らされた、悲痛なるまでの個と個の断絶。
あれは、目をもたぬ者へ与えてくれたギフトそのものでした。
- 作者: 栗本薫
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でも、私には今、栗本さんの文章が、読めません。
その多くは僕にとってノイズのかたまりです。
残りのほとんどは、僕にとって悪意のかたまりです。
それでもなお、私はグインを126巻まで読みました。
この私にもまだ、何か掴み取れるものはないだろうか、と。
それもまた、惰性なのかもしれません。
ですが、かつて、何よりも愛した、あの世界へ
それでも私はまた還りたいと願っているのです。
いつか どこかへ 帰りたい
イツカ ドコカヘ カエリタイ カエリタイノ
夢に楽土を 求めたり