「デス・ノート」を物差しに語る「ガッチャマンクラウズ」の面白さ。
ガッチャマンクラウズの魅力について
善と悪、ヒーローのあり方辺りは海燕さんのこちらの記事を。
はじめちゃん=王の捉え方については海燕さんのこちらの記事を。
上記リンク先の記事を読んでいただけると、「ガッチャマンクラウズ」の魅力について非常にわかりやすくまとめてある、と思います。さすがは海燕さんです。
そちらの方面での私の言いたいことは正直ほとんど網羅してありますので、まず、上記記事を読んでいただけたら、と思います。無料で読める部分だけでも十分かな、と。
さて、それを補完する、というとおこがましいですが、私は私の言葉で「ガッチャマンクラウズ」の魅力について以下に書いてみます。
まず、ヒロインのはじめちゃんについて。
はじめちゃんの演出を見る上で参考になるのは、「デス・ノート」じゃないでしょうか。
「デス・ノート」の夜神月とLはどちらも天才として描かれていました。そして、その演出方法は、基本的に、必要な情報を得た瞬間に、相手の手の内は全て読み切ることが出来る、というものでした。
はじめちゃん、というキャラクターのよいところは、深読みながらアニメを見る人にとっては、瞬時の思考で正解を選び取ることのできる天才として映り、深読みせず、おおらかにアニメを見る人にとっては、天然で結果オーライのラッキーマンならぬラッキーガールとして映るだろうということで、どちらにしてもエキセントリックで非常に目立つ存在として認識されるであろうところです。
好きな人はめっちゃ好き、嫌いな人はとことん嫌い、と分かれそうなキャラクターです。
ちなみに私は、彼女を天才として見ており、しかも、めっちゃ好きな方なので、ラッキーでした。
はじめちゃんの描写には月やLと共通のものを感じます。彼女は情報を得た瞬間に最適の解に辿り着く思考力を持っているのです。
無軌道に行動した結果のようにも見えますが、彼女の行為には幾つか一貫したところがあります。そこのところを少し詳しく見てみましょう。
彼女の基本は「認識の変革・創造」にあるのかな、と今は考えています。まだ結論は出せないので、暫定的にではありますが。
第2話で、はじめちゃんは、ガッチャマンに変身し謎の物体MESSと対峙します。しかし、彼女はMESSを退治しようとはしませんでした。そして、MESSに対し、ハサミを利用するなどしてアピールを行い、MESSに人間の存在を認識させるのです。
実はMESSは人間が知的存在であることに気付かなかったのです。そのため、いうなれば、小さな虫を知らずに踏みつけてしまう人間のように、MESSは知らずに人間をどこかへ連れ去ってしまっていたのです。
人間の被害を食い止めるため、MESSを撃退すべきである、というガッチャマンチームの判断は決して間違ってはいません。MESSは無機物でもあるかのような外見をしていますし、コミュニケーションが取れるようには見えないのです。
しかし、はじめちゃんは、「MESSは必ず倒すべき」という固定観念に違和感を抱きました。
そして、MESSに人間の意思の存在を認めさせ、彼らを人類にとっての災厄からむしろ好意的な存在へと変革させました。
MESSの持つ、人間の存在に対する認識の変革(塵芥から知的生命体)、はじめちゃん以外のガッチャマンチームの持つ、MESSに対する共通の認識、(倒すべき敵→共存可能、という認識を覆したのです。
彼女が、こういう「認識の変革」を行う例は他にも見られます。
はじめちゃんは、よく、他者に対して質問を行います。これはおそらく視聴者の方のほとんどが気付く彼女の特徴です。
彼女のコミュニケーションとして
1. 名乗る
2.他者に対して質問する。
3.自分の見解を述べる。
4.違和感があれば、それを行動で解消する。
といったパターンがあります。
これは、
1.名乗ることにより自己を相手に認識させる。
2.質問により、相手の立ち位置を正確に把握し認識する。
3.見解を述べ、変革を促す。
4.変革が十分でなければ、行動を持って変革を促す。
といった結果を伴った行動になります。
こういう風に分析していくと、はじめちゃんは、一定の価値基準から発する思考に基づいてごくまっとうなコミュニケーションを行っているように見えます。そして、そのコミュニケーションは、積極的に他者の価値観に変革をもたらすものであると言えます。
それ故に、彼女の行動は、偶然の産物ではなく瞬時の思考により正解を見出し、最適化した結果の産物であると言え、思考バトルにおいては状況判断を最適する「デス・ノート」のLや月の特性と似通ったものがあるといえます。
ただ、描写の違いとして「デス・ノート」では基本的に思考の過程をモノローグで追っていますが、「ガッチャマンクラウズ」でははじめちゃんのモノローグは示されない、という大きな違いがあります。
これがはじめちゃんというキャラクターを視聴者に掴みにくくさせている、ということがありますが、同時にはじめちゃんの最適化の凄みを見せています。
思考の過程を伏せたために、その思考力の高さを際立たせています。「デス・ノート」7巻の、夜神月がデスノートに触れ記憶を取り戻し「計画通り」と不敵に笑う、あの名シーンを思い起こさせる演出です。
しかし、「ガッチャマンクラウズ」では、はじめちゃんがその凄みを何度も見せてくれるのです。
また「ガッチャマンクラウズ」のもう一人の主要キャラ、ロード・ギャラックスこと累くんについても「デス・ノート」を引き合いに出して語ることが出来るでしょう。
累の創り出したGALAXというシステムは「デス・ノート」のキラ、夜神月の構築したものと実に対照的なものだと言えるでしょう。
夜神月は、ノートに相手の名前を書くことで人を殺すことの出来る能力を持っていました。
そして、その能力を持って凶悪犯罪者を片っ端から殺すことにより、世の中から犯罪をなくしていこうとした。恐怖による民衆の管理を実行したのです。
実際、「デス・ノート」の世界では、突然死への恐怖から凶悪犯罪を犯す者は減少していく。
月の試みは、一定の成果を上げたと言えるのです。
しかし、彼自身が行っていることは殺人行為であり、彼自身は凶悪犯罪者と化してしまっている、という問題点があります。
一方、累は、世界のアップデートと称し、世界を底辺から少しずつ良くしていくことを目指して、GALAXというSNSを立ち上げます。
そこで累がやろうとしたのは民衆を管理下において、ある問題が生じても、可能な範囲においては民衆自身に解決してもらう、ということ。SNSを利用し、周囲で起きたトラブルを解決すると、ソーシャルゲーム内でポイントを得ることができるシステム。これは個人が自分の出来る範囲で他者のトラブルを解決しようとするモチベーションアップに非常に役に立ちました。
これは、民衆の性向を的確に把握した、卓越したシステムだと言えます。
はじめと累、別の立場に立ち、ミクロとマクロの視点からそれぞれ変革を行おうとする魅力的な二人の活躍が「ガッチャマン・クラウズ」の大きな魅力であると感じます。
未見の人は、必見の傑作アニメだと思いますので、全力でお薦めします。
ちょっと書き足りないところもありますが、今日はこの辺にしておきます。
また次の記事でももう一度触れたいと思います。
日常_職場にて、ゲリラ豪雨時々高橋留美子さん
職場でこんな会話があった。
後輩くん「いや〜犬夜叉好きなんですよ〜小学生の時に、どはまりで〜」
私「ほうほう。犬夜叉、私も途中まで読みましたよ(桔梗が好きで)」
後輩くん「それでですね、「うる星やつら」が読みたいんですけど、本屋に売ってないんですよ」
私「ああ、確かに最近は売ってないかもね」
後輩くん「そうなんですよ、古本屋でも売ってないんですよね」
私「全巻持ってるけど、貸しましょか?」
後輩くん「マジですか?! お願いします!!」
私「ただ、ちょっと探さないと出てこないかもしれないんで、ちょっと待ってね」
後輩くん「はい!!」
私「高橋留美子さんだったら、ちなみに私は「人魚の森」とか好きだったりするんですけど」
後輩くん「え!?それ、どんなのですか?」
私「ホラーというかシリアスものなんだけど、なんとも言えない(暖かさがその裏にあって、じわっとくる)良さがあるんですよ」
後輩くん「へぇ、でそれ、作者は誰なんですか?!」
私「……(いや、だから)、高橋留美子さんですよ。」
後輩くん「へぇ、そうなんですね!!」
私「「人魚の森」ならあるとこわかってるから持ってきますよ」
後輩くん「ありがとうございます」
で、「うる星やつら」ですが家じゅう捜索して、縁側の奥の本棚の奥と、パソコンルームの前の煤けたサイドボードの奥から、ようやく探し出してきて並べる。
「あれ、29巻だけ無い……」 orz
これはまずい。おそらく倉庫に積んでるサンデーコミックスの山に埋もれてしまっているはず……、あそこは亜空間だ……。キャットルーキーの間に挟まれてるかもしれない……。
とりあえず29巻はアマゾンで補完することに。
ただ、いきなり全34冊持っていったら後輩くんがびびってしまうと思われるので5冊ずつぐらいにしようかと思っています。
「人魚の森」、気に入ってくれると嬉しいなぁ。
小説アップロード
小説を書き上げましたので、
こっそりとアップロードしておきます。(追記:H24/7/24 B5印刷用ファイルをアップロードしました。記事の最後のところです。)
(追記2:H24/9/12 本編を若干改稿し、初出の固有名詞ふりがな付けたバージョンをアップロードしました。))
タイトルは
「Grand-Welt」(グラン・ベルツ) 〜外郭のひとびと〜
よろしかったら読んでみてください。
舞台は現代(あるいは近未来)です。
長さは文庫本(創元推理文庫)換算で180ページ前後ぐらいです。
ダウンロードはこちら
以下にサンプルとして小説の書き出しの部分を掲載しておきます。
「Grand-Welt」(グラン・ベルツ) 〜外郭のひとびと〜
神出拓馬
箏也(1)
いつのころからだっただろう。
僕は人の輪を離れて遠くから眺めることが多かった。
ふと気付くと、同級生たちは、互いに仲のよい友人を見つけ、なにげなく会話を交わし、笑いあっていた。
それは、何度クラス替えが行われても同じ。いつも僕は気が付くと一人になっていた。
面白い話が出来るわけでもない。流行の芸能人やドラマにも、他の級友ほど興味を持てるわけでもなかった。
何度かカラオケにも誘われたけれど、別に歌をうまく歌えるわけでもない。当然、流行の歌など知らないし、歌えない。
数年前に流行った曲を何度か調子外れに歌っていたら、そのうちカラオケに誘われることもなくなった。
最初は寂しいと感じたこともあったように思う。でも、その寂しさにもいつしか慣れたようだ。
一人でいたなら、会話のなかで変な返答をして、つまらない奴だと溜息をつかれることもない。
一人は自由だ。
そして、幸い学生の本分は勉学にある、とされている。
自分はクラスメイトとうまくやっていくことは出来ない、だったらせめて勉学に勤しもう。
僕はそうして数多くの本を読み、数多の物語たちに出会うこととなった。
作家たちの生み出す物語世界はどれも、圧倒的な迫真性を持って僕を包み込んでくれた。
僕はベネズエラの緑の館でリーマに恋をし、死に別れ、ビルマに1人残り、死者を弔って半生を過ごした。
そうして物語の中の世界、それこそが真実の生なのだ、と確信するに至った。
そう、それに比べれば、自分の生のなんとちっぽけなことか!!
僕は、更に多くの物語にのめり込んでいった。
来る日も来る日も、僕は物語を読み続けた。
そして、己の現実の生を綿密に、より希薄なものへと変えていった。
学校の成績は決して悪くなかったから、両親も僕が読書に耽るのを止めることはなかった。僕は静かに少しずつ、しかし確実に人間社会から切り離されていったのだ。
そんな僕と現実との唯一の接点を見出すとしたのなら、それは僕の叔母、霧迦(きりか)の存在にあっただろう。
*
僕の叔母、印南霧迦(いんなみきりか)は不思議な人だった。
彼女が今のように時を止める以前からずっと、ぼくと霧迦さんとの7歳の年の差を実感したことがない。
おばさんと呼んでも彼女が怒らないのは、おおらかさなのかなんなのだろうか。
「事実だし」
そういって笑った顔は同級生の女の子たちよりもずっと子どもっぽかった気がする。
この人の笑顔は本当にいつも変わらない。
今、目の前でにこやかに笑う霧迦さんの横顔を見ながら、そんなことを考える。
整った顔立ちだった。それは別に身内の欲目というわけでもない。
彼女は以前には「美人過ぎるゲームクリエーター」として大手ニュースサイトで取り上げられたこともあった。
彼女のデザインしたクリーチャーは、「なーがぁ」というまるっこい蛇を筆頭に、それぞれが不思議な愛嬌があって、携帯ゲームなどに登場するやいなや、瞬く間に人気を博していった。そして、C2からF1層をメインにM2層までと、幅広いライトゲーマーから小銭を定期的に奪い取るのに大いに貢献したのだ。
ブログを書けば、毎日万単位のアクセス。僕のブログの20倍だ。彼女はささやかながら有名人の一人でもあったのだ。
僕は彼女のことが好きだった。母の兄弟姉妹のなかでも一番好きだったと思う。幼いころから、親戚で集まったときなど、霧迦さんは、僕のことをいろいろと構ってくれたので刷り込まれたのかもしれない。彼女が身近にいる、その特権をありがたく感じたこともたびたびあった。そう、彼女の甥だからこそ、こうして今、会いに来ることも出来ているわけだ。
そして、正直なところ、僕は霧迦さん以上に優しくてきれいな女の人を、他にみたことがなかった。
その印南霧迦が自殺した。
いや、より正確にいうなら自殺未遂だ。
彼女は生きている。医学上、生理学上では、彼女は生きている。
そして、僕の目の前で今、にこやかに笑っている。
(続く)
■
工事中(近日、創作小説アップ予定)
アニメ「氷菓」の原作との時系列の食い違い
夜中に目が覚めて、なかなか眠れなかったので、氷菓6話「大罪を犯す」を観ました。
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で気が付いた。
アニメは、原作の時系列をそのまま再現することにはこだわらずにつくられているんだ、ということ。
厳密に言えば、大きな矛盾の起こらない範囲で都合のよいように事件の起こった日付を改変している、ということ。
あまりにも自然だったので気が付いていなかったのですが、
第4話の千反田邸訪問は、原作では7月末の夏休みの出来事でした。
何も説明がなかったので、なんとなく原作のとおり、夏休みの出来事として描かれているのか、と思っていました。
ちなみに第5話のエピソードは千反田邸訪問の翌日。その相対的な位置づけは原作と同じです。
だからこそ、自然に次回6話が夏休みの終わり近くの設定である「愚者のエンドロール」だと予想したわけですが、予告を見て「大罪を犯す」ってなんでやねん、と頭の中を?????が飛び回っていました。
「大罪を犯す」は連作短編集の体裁をとっているシリーズ4巻「遠まわりする雛」に収録されているエピソードです。
そして、原作では6月、梅雨の時期の話となっています。
なので、時を遡らせるのか、と思いました。それもありなのか、と思ったのです。
でも違ったのですね。アニメは、やはり、アニメの時系列どおりに順番にエピソードを進めていたのです。
第6話を見直すと、冒頭でB組(ホータローのクラス)の黒板の右端の日付が7月1日になっています。6月ではなく、7月に微妙にシフトされているんですね。もともと梅雨の間の晴れ間の日という設定の話なので、違和感なくシフトされています。
その前提で第5話を見返して気が付きました。
あ、これ6月のエピソードに変更されているんだ、と。
作中では日付に関する言及は全くないのですが、第5話冒頭の千反田邸訪問からの帰り道のシーン。田んぼの中の道で里志とホータローが語り合うのですが、その背景の田んぼの稲の成長具合が、田植えしてから1か月弱ぐらいのものなんですね。一応うちは兼業農家で稲作もやってましたのでその辺はわかるのです。
で、舞台の神山市は設定上、岐阜県高山市がモデル。岐阜県の田植えの時期は気候を考えて5月中旬から下旬の間と思われます。
とすると自動的に、千反田邸訪問が6月の中旬から下旬に位置づけられるわけです。
ここで、思い出されるのが、第4話千反田邸訪問時の一番目立った変更点、「突然の雨」です。原作では7月下旬なので梅雨明け後ですが、アニメだとまさに梅雨まっただ中。だからこそ、雨のエピソードを追加したのだ、という意図が見えてきます。
うーん、そういうことか。6話をみるまで気が付かなかった。
逆にいうと、違和感の少ないようにそうとう配慮しながら時系列の変更が行われている、ということですね。さすが京アニ、こだわりの作りになっています。
ちなみに第7話「正体みたり」も「遠まわりする雛」収録のエピソードですが、これは夏休み中の話です。
おそらくここは時系列変更無しで、第8話以降に「愚者のエンドロール」を持ってくる、という寸法ではないでしょうか。
ということで、入須さんは、二週間先にようやく登場してくれそうです。わくわく。
NHK報道番組「クローズアップ現代」のアニメ聖地巡礼に関する分析メモ(若干補足)
製作サイドの理由
・アニメ制作の省力化のため
(背景をトレースにて製作できる)
(架空世界を設定した場合必要となる世界観の構築の手間を省くことが可能)
・アニメDVDや関連CD売上などの売上げ以外の収入源へつなげていく。
・地元自治体などの地元団体とタイアップすることで協力が得やすい。
地元目線からの演出などのヒントも得られる。→これも製作の効率化につながる。
ユーザーサイドの理由
・聖地巡礼を行うことで、アニメの世界の中に入るのに似た快感が得られる。
・アニメの中で登場した場所を自分たちで探すことによって、能動的な楽しみが得られる。
・等身大の主人公を設定できるため、感情移入がしやすい。世界をイメージしやすい
ので没入しやすくなる。
現在の潮流
・自治体が地元のPRに、地元密着アニメを利用しようとしている。
ラグランジェ、埼玉PRアニメ4本立てなど
この手法の問題点
・地名連呼など、あざとさが過ぎると、ユーザーには、踊らされている、という自覚が生じ、能動的な楽しみが阻害される。そもそも聖地は地元や製作サイドがお膳立てをして提供するものではない。感情移入、没入も阻害されやすくなる。
・単に地元PRありきで作品をつくっても、作品のクオリティを上げることは難しい。作品のクオリティが低いとそもそもユーザーは関心を持たないし、ロケ地へ聖地巡礼を行おうとはしない。というかそもそも見ない。
今後の展望
・しかし、地域密着型日常アニメは既に1ジャンルを構築しており、当面は一定のニーズを生み出し続けるだろう。
要旨をまとめて若干補足するとこんな感じだろうか。
認識として、決して間違っていないと思われます。
オタクやマニアにとってみれば、何をいまさら、という内容ですが、NHKのゴールデンで放送されたと考えると、なかなかのバランス感覚だと思います。やるな、NHK。
「惡の華」について、アウトサイダーの言い分
前の「惡の華」の記事についてmixiの方でコメントがつきました。
「アウトサイダー」は憧れてなるものではないのじゃないか、というご指摘でした。
それに対する私のレスをこちらにも転載しておきます。
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そうですね。「アウトサイダー」は憧れてなるものではない。
実際「惡の華」においても、きっかけにおいて、どうしようもなく陥ってしまう、という展開を持ってきています。
春日くんと仲村さんが自転車で町を出ようとするところまではその形で一貫していて、初期にプロットとしてここまでで物語をまとめる形も念頭にあったのかな、と思いました。
ところが、物語はまだ続いているんですよね。
この辺は、全然違うアプローチの「君のいる町」と似たような状態になっている、と感じました。
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どういうことか、と言いますと、通常の物語としては、既にハッピーエンド、あるいはバッドエンドへ至るだけのエピソードが既に終わっている状態にありながら、ヒロインの内面の特定のみが先延ばしにされている状態なんですよね。そこが両者に共通するところ。
で、「君のいる町」のハルトにしても、「惡の華」の春日くんにしても、自分の見える範囲で、ヒロインの女の子の内心を決めつけたまま、ひたすら行動を続けているんですよね。
結果、ハルトの周りからは幼なじみを含めた以前の友人の姿が消えています。そして、ヒロインの瑞希のみが残った状態になっています。二人は恋人同士になりますが、瑞希の心の内はいまだ十分に描写されていません。彼女が何を考えているのか、ぼかされたままここまで来てしまっています。彼女次第でハルトは友達も幼なじみも彼女も失い一人残される、という急転直下のバッドエンドに立たされる可能性も残っています。
「惡の華」でも、春日くんは、ローカル社会において、自分の立ち位置、居場所を見失い、かつ失っています。ヒロインである仲村さんが、別の形でローカル社会で浮いた存在になっていました。そして、春日君は、仲村さんと二人でともに社会から孤立し生きて行こうと決めます。
春日くんは仲村さんの望む行動を、今までの仲村さんの言動を基に類推し、行おうとします。
それは反社会的行動に値するものですが、春日くんの中で、仲村さんの孤独を癒すために、完全に正当化されているんですよね。
でも、それは仲村さんの言質をとったわけでも何でもない、春日くんの暴走なわけで。
この後、どこかで仲村さんに突き放されるのは目に見えてるんですよね。
「君のいる町」はまだ、恋愛を主題にしてるんで、後釜の女の子を登場させれば、瑞希に拒否されても、(読者の納得とかを抜きにすると)まだハッピーエンドへも持って行けそうです。
でも、「惡の華」はもう、どうしようもない。春日くんが世界を受け入れるためには「罪と罰」のラスコリニコフみたいに何十年か刑務所に入ってくるぐらいしか無いんじゃないかな、と。
春日くんは中学生という設定なんで、物事が見えてないのは仕方ない、むしろそこはリアルな描写だと評価しています。
でも、話の内容に比して、彼はあまりにも周囲が見えなさすぎて悲しい。
逆にアウトサイダーがみんなこんな奴だと思われると嫌だなぁと思ってしまうわけですよ。
私は私なりに、立ち位置を模索して、確立した結果、今の位置にいるわけで。
……でも昔の私は春日君とある意味似たり寄ったりともいえるんで、それが恥ずかしいのかなぁ。まぁ春日くんも今の私の年齢になったら、私よりずっと立派な人間になってるかもしれませんね。
でも、あの劣悪な状況を見せつけられると……、いや〜辛いです(笑) 全くの他人ごととして見ることができたら楽なんでしょうけど、どうしても感情移入してしまうので。
まぁ、なんだかんだ言いましたが「惡の華」は長期スパンで暖かい目で見守っていきたいと思っています。