押見修造「惡の華」

惡の華(3) (講談社コミックス)

惡の華(3) (講談社コミックス)

一〜四巻読了。
前から気になっていた作品でしたが、
読んで爽快な気分にはなれないだろうな、と思って読むのを躊躇していました。
レスター伯のお薦めもあって今回読んでみました。
……予想どおりイヤな気分になりました(^^;
物語として非常によく出来た作品だと思っています。
いわゆる純文学の世界を娯楽作品へ落とし込む際には、その切り口によって読者を選別する作品になってしまいます。
 『AIR』もそういう作品だったのですが、「惡の華」は、作品の雰囲気を最初から純文学テイストで満たしているため、読者の側で心の準備をさせてくれる分だけ、『AIR』に比べれば良心的なのだ、と言えるでしょう。
 物語作品に娯楽を求める人は、この作品を読んではいけません。やり場のない強烈な怒りを覚えるだけだと思います。

 私もまた、この物語に接して忸怩たる想いを持つ人間の一人です。しかし、それは物語作品に娯楽を求めているから、ではありません。

 この作品が自分の暗黒面を刺激するからです。

 私はクソムシであり、それを心底痛感したが故に、クソムシである自我を自ら抹殺することにより、社会と辛うじてつながっているのです。
 少しでも気を抜くと、ゴミクズのような自分が噴出されてきます。
 何人かの人は、そのことを知っているはずです。
 私は、この物語の、春日くんや、仲村さんのように、証拠を残したりはしません。
 法もきちんと勉強しましたから、法に触れるようなこともしません。

 ただ、私は、そうなんだ、というだけのことです。
 私は、仲村さんのように、外部を貶めて自分を確立できません。春日くんのように、他者のために自分を変容させることもできません。
 私はただ、ひとり、空気と化すことによって、社会を受容することしかできません。
 NBAの元スーパースター、ジェリー・ウェストは、どこまで行っても、自分を評価してやることができなかったそうです。
私は、どこへも行きません。いや、行けません、と言った方が、一般向きの回答でしょう。
私はボードレールは知りませんが、トルストイ魯迅を読んで育ちました。
私は、彼らの言葉を理解することが出来ました。
春日くんはボードレールの言葉を理解できなかった、と言います。
それが故に、彼は変容することが出来ました。そして彼は犯罪を行います。

彼と私の境遇の、どちらがよかったのか、それは一意に判断できるものではないでしょう。

 これから彼をどう描くことが可能なのか。商業漫画という枷のなかで、どこまで描き続けることが出来るのか。興味深いです。
 一つだけ言えるのは、春日くんはまだ、「アウトサイダー」に憧れているだけです。そこに踏み込むことがどれだけの苦悩の道になるのか、彼はまだ、知らないのです。

岡田斗司夫講演会@同志社大学の印象(速報)

 最近いろいろ考えていることと密接に関連した内容だったと思います。
 詳細に分析して自分の中に取り込んでフィードバックしたいと思っていますが、とりあえずメモ的に少し書いておきます。

演題は「私たちは生涯、働かないかもしれない」

基本的には岡田さんの著書「評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている」で書かれている内容の補完、というか、その内容をどのように受け止め、実際に一個人として価値観に組み込み、行動の意思決定に反映させていくのか、ということで位置づけられるのかな、と思いました。

 論のポイントとして概要をまとめると、
1. 就職はオワコンである。
2. カネもオワコンである。
3. 「勇者」としての生き方を提示します。

※岡田さんが会場のスクリーンで提示してくださったレジュメとほとんど同じなのですが、3だけちょこっと変えました。

 これをどう捉えるのがよいのか、ということについて、ちょっと書き加えておきますと、「最適化」の手段の一つを提示してもらったのかな、と思います。就職や働く、ということについて、今現在の人々が、旧来の固定観念に囚われて、必要以上にしんどい目にあったり、必要以上に不安になったりしている可能性はないでしょうか、と。
 価値観のシフトを行うことによってひょっとしたら、より楽に幸せを感じ取ることが出来るかもしれませんよ、という話ですね。

 根本には、未来学者のアルビン・トフラーのいう「第3の波」によって世界の在り方が変わり続けている、という認識があって、それが表面化してきた例の一つ(二つか)として、大学卒の就職率が6割、生涯未婚率が4割、という事象があげられる、と。

 就職率が6割ということは、4割の人は就職できないわけですよね。そういう現状があるときに、例えば「頑張って努力して就職しなければならない」とだけ考えて自分を追い込んでもただ辛いだけなんじゃないかな、と。
 だって、ほぼ100%に近い数字で大学卒業したら就職しようとすると思うんですよ。でみんな必死に就職活動するわけですよね。でもその必死の人の4割は就職できないんですよ。そういう現状だともう全員就職して生活費を稼ごう、というシステム自体が破たんしているんじゃないか。
 職を選ばなければ、なんらかの定職に就けて、定年まで長く勤められる、という時代とは現状は違っているんですよね。
そもそも就職するのは何故か、というと生活するため、ですね。
自分の時間を労働力として会社へ売って、お金をもらい、そのお金でものを買って生活するというシステム。
 これは「第2の波」の工業中心に最適化されたライフスタイルなわけですが、これにとらわれる必要もないんじゃないか、という提示。実際に何にお金をつかっているか、と考えると、生活必需品では無い、何かを買うためにお金をたくさん使ってるんじゃないか、と。趣味の関係とか旅行とかって、生活に必要なものではないですよね。
実際に生活するだけだったら、そんなにお金は必要ないのじゃないか。と。
生活費を過大に見積り過ぎてないか、という話。
実例としてある女性がニートの弟の面倒を見ているらしいが、一人暮らしのコストにプラスして月2万円程度あれば、十分らしい。
 じゃあ、現代日本では、経済的自立とかしなくても、ニートとして生きる道もあるんじゃね、と。
で、運よく就職を出来た人は、ニートの人を分担して面倒を見れば、みんなハッピー。
 ただ、その際に、面倒を見る人の側のストレスを軽減するためには、ニートの人は気をつかっていい人たるべき、と。いい人になったら、近所の人から何かおすそ分けをもらえるかもしれないです。そうすることでみんな生きやすくなるんじゃないかな、と。
 それが「愛されニート」という概念。
 お金を稼ぐ人、とお金を稼ぐ人にちょっと気をつかって少しだけ元気を分けてもらう人と、役割分担すればいいんじゃないかな、と。

 就職できないのは努力が足りないからだ、就職できない自分はだめな人間だ、と考えてただストレスをため込むだけなんだったら、「愛されニート」になることは立派な就職なんだと考える、そういう選択肢もあっていいんじゃね?というお話なのかな、と。

 この辺はもうちょっときちんと筋立てて文章化してみたいところでもあります。



 最近いろいろ考えていることと密接に関連した内容だったと思います。
 詳細に分析して自分の中に取り込んでフィードバックしたいと思っていますが、とりあえずメモ的に少し書いておきます。

演題は「私たちは生涯、働かないかもしれない」

基本的には岡田さんの著書「評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている」で書かれている内容の補完、というか、その内容をどのように受け止め、実際に一個人として価値観に組み込み、行動の意思決定に反映させていくのか、ということで位置づけられるのかな、と思いました。

 論のポイントとして概要をまとめると、
1. 就職はオワコンである。
2. カネもオワコンである。
3. 「勇者」としての生き方を提示します。

※岡田さんが会場のスクリーンで提示してくださったレジュメとほとんど同じなのですが、3だけちょこっと変えました。

 これをどう捉えるのがよいのか、ということについて、ちょっと書き加えておきますと、「最適化」の手段の一つを提示してもらったのかな、と思います。就職や働く、ということについて、今現在の人々が、旧来の固定観念に囚われて、必要以上にしんどい目にあったり、必要以上に不安になったりしている可能性はないでしょうか、と。
 価値観のシフトを行うことによってひょっとしたら、より楽に幸せを感じ取ることが出来るかもしれませんよ、という話ですね。

 根本には、未来学者のアルビン・トフラーのいう「第3の波」によって世界の在り方が変わり続けている、という認識があって、それが表面化してきた例の一つ(二つか)として、大学卒の就職率が6割、生涯未婚率が4割、という事象があげられる、と。

 就職率が6割ということは、4割の人は就職できないわけですよね。そういう現状があるときに、例えば「頑張って努力して就職しなければならない」とだけ考えて自分を追い込んでもただ辛いだけなんじゃないかな、と。
 だって、ほぼ100%に近い数字で大学卒業したら就職しようとすると思うんですよ。でみんな必死に就職活動するわけですよね。でもその必死の人の4割は就職できないんですよ。そういう現状だともう全員就職して生活費を稼ごう、というシステム自体が破たんしているんじゃないか。
 職を選ばなければ、なんらかの定職に就けて、定年まで長く勤められる、という時代とは現状は違っているんですよね。
そもそも就職するのは何故か、というと生活するため、ですね。
自分の時間を労働力として会社へ売って、お金をもらい、そのお金でものを買って生活するというシステム。
 これは「第2の波」の工業中心に最適化されたライフスタイルなわけですが、これにとらわれる必要もないんじゃないか、という提示。実際に何にお金をつかっているか、と考えると、生活必需品では無い、何かを買うためにお金をたくさん使ってるんじゃないか、と。趣味の関係とか旅行とかって、生活に必要なものではないですよね。
実際に生活するだけだったら、そんなにお金は必要ないのじゃないか。と。
生活費を過大に見積り過ぎてないか、という話。
実例としてある女性がニートの弟の面倒を見ているらしいが、一人暮らしのコストにプラスして月2万円程度あれば、十分らしい。
 じゃあ、現代日本では、経済的自立とかしなくても、ニートとして生きる道もあるんじゃね、と。
で、運よく就職を出来た人は、ニートの人を分担して面倒を見れば、みんなハッピー。
 ただ、その際に、面倒を見る人の側のストレスを軽減するためには、ニートの人は気をつかっていい人たるべき、と。いい人になったら、近所の人から何かおすそ分けをもらえるかもしれないです。そうすることでみんな生きやすくなるんじゃないかな、と。
 それが「愛されニート」という概念。
 お金を稼ぐ人、とお金を稼ぐ人にちょっと気をつかって少しだけ元気を分けてもらう人と、役割分担すればいいんじゃないかな、と。

 就職できないのは努力が足りないからだ、就職できない自分はだめな人間だ、と考えてただストレスをため込むだけなんだったら、「愛されニート」になることは立派な就職なんだと考える、そういう選択肢もあっていいんじゃね?というお話なのかな、と。

 この辺はもうちょっときちんと筋立てて文章化してみたいところでもあります。

ラジオ告知。

仕事が忙しくなってきたあるよ。

でもラジオはやるあるよ。

というわけで、
今週もかんでラジオやりますです。

明日9/28(水)21:00ごろからです。

お題は「少年漫画における恋愛描写」

今回は週刊少年マガジンの回ということで
君のいる町」、「GE」を中心にGiGiさんと語っていく予定です。

いや〜君町はやばかったなぁ、いろんな意味で(^^;
今の自分の関心に欠けている要素を思い起こさせてくれた気がしています。

ラジオURL
  ↓
http://www.ustream.tv/channel/kandetakuma


あと、10/2(日)は、海燕さんの方のラジオでしゃべる予定です。

中心作品は「ハンター×ハンター
あしたのジョー」、「デビルマン」、「AIR」、「AngelBeats!」、「まどマギ」、「SWANSONG」などと共通する魅力、「到達」という概念について解説していきます。

これは、私が最近最も関心を寄せる命題である、

私の見た「真実」の解析と他者への伝達

というものに非常に深くかかわる概念のひとつなので、楽しみにしています。
現時点でどれぐらい伝えられるものなのか、共有し得るものなのか。

うん、楽しみです。

「アウトサイダーの肖像」

〜『AIR』DREAM 美凪シナリオの真実〜


アウトサイダー=社会秩序の内にあることをみずからの意志で拒否している者。
こういった人たちは、インサイダー=既成秩序の内側にとどまる人々、にとってはやっかい者でしかない。
コリン・ウィルソンアウトサイダー集英社文庫版裏表紙より〜


目次
(1)アウトサイダーのもつ価値観
(2)遠野美凪を縛る「母の夢」
(3)みちると美凪と「私の夢」
(4)おわりに



 序


 西暦2000年9月8日。
 この日、『AIR』は発売された。


AIR メモリアルエディション 全年齢対象版

AIR メモリアルエディション 全年齢対象版



『AIR』概要紹介HP


 ジャンルはビジュアルノベル
 しかし、発表直後、この作品の評価は賛否両論、二分されていた。
 圧倒的な素晴らしい作品である、という肯定的な評価と、内容が貧しく破綻しているという批判的な評価、その両極に対立する。
 そして今もなお、その状況には大きな変化はない。
 どうしてこういうことが起こったのだろうか。
 その理由として挙げられるのは、『AIR』のなかで描かれた物語が、非常に解釈の自由度の高い描かれ方をしている、ということである。
 さきほど私は『AIR』を、人間という存在を内奥深くまで描き切った、素晴らしい作品であると評した。
 しかし、別の観点から見れば、さしたる意図なく安易に人間の死を取り扱った、ひとりよがりな作品である、という印象を受けるかもしれない。
 作中で作者の意図がより明確に示されていれば、プレイヤー(以下「読者」という。)の側での、そういう根本的な解釈の乖離は起こらなかっただろう。
 もしも、作者の唯一の意図をきちんと全ての読者に伝える、ということが、物語に求められる必要条件とするならば、『AIR』はその条件を満たすことは出来なかった。このことが『AIR』の欠陥として批判されることについて、異議を唱えるつもりはない。
 しかし、同時に『AIR』は、まさにその解釈の自由度の高さを持って、幾人かの読者を至上の高みへといざなったのである。
 その恩恵を享受し得た幸運な読者のその一人として、『AIR』がもたらしてくれたもの、それを微力ながら解説していきたい。


 この評論においては、まず『AIR』を豊かな物語として読み解いていく際に重要な物差しとなるであろう「アウトサイダー」という概念について解説していく。『AIR』の主人公、国崎往人、そして、ヒロインとなる神尾観鈴遠野美凪霧島佳乃。彼らはそれぞれ「アウトサイダー」としての性質を色濃く持ったキャラクターであるからだ。
 それから『AIR』の長大な物語のなかから、「DREAM編」美凪シナリオを中心にとりあげて見ていくことにする。
 『AIR』の構成は大きく分けて「DREAM編」、「SUMMER編」、「AIR編」の三部に分かれている。そして、その第一部にあたる「DREAM編」はいわゆるヒロインと呼ばれる三人の女の子たち、神尾観鈴遠野美凪霧島佳乃の三人に対応した三つのシナリオから構成されている。
 『AIR』という作品全体を俯瞰しようとするならば、「AIR編」において視点を有するなど極めて重要な役割を果たすキャラクターである神尾観鈴について「DREAM編」においても重点的に解説するのが効率的である、といえるだろう。
 『AIR』全体からみれば、「DREAM編」美凪シナリオは幹ではなく枝葉の部分を構成するものだからだ。
 しかし、「DREAM編」の3つのシナリオのなかで最長のこのシナリオは「夢」を最大のキーワードとしていることもあり、第一部「DREAM編」を代表すると言えるだけの内容となっている。
 そして、美凪シナリオは、多くの魅力的な特徴と重要な主題をともに有しているため、これをとりあげることで『AIR』から私が得たものの多くを網羅し解説することが可能だと考えるのである。



(1)アウトサイダーの価値観


 「アウトサイダー」とはコリン・ウィルソンが自著『アウトサイダー』において提唱した概念である。
 『アウトサイダー』は非常に難解な評論書であるが、その中から、「アウトサイダー」という概念について、説明していくことにする。

 「アウトサイダー」という概念を端的に説明することは非常に難しい。短い文章の中で正確にニュアンスを再現することは困難だと思われる。しかし、概略を掴んでいくつもりで説明していこう。
アウトサイダー」とは、冒頭で引用したように、社会秩序の内にあることをみずからの意志で拒否している者のことである。
 人間は基本的に社会に属している。そのことには疑問をいだかない。もし疑問を抱いたとしても、自らが社会秩序の中にあることは仕方のないことだと考える。だから、それに当てはまらない「アウトサイダー」は少数派であると言えるだろう。そう考えると、その本質というものは一般に理解されにくいものかも知れない。
 「アウトサイダー」と対になる「インサイダー」は逆に、既成秩序の内側にとどまる人々である。現実世界ではこちらの方が多数派となるだろう。
 
 「アウトサイダー」のイメージを掴みやすくするために、彼らの特徴を具体的に幾つか挙げておこう。
 例えば「アウトサイダー」はこのように考える。
 通常言われる幸福のイメージに異議を唱える。
 恋愛をして、結婚して、家庭を持ち、天寿を全うして死ぬ。
 仕事で、あるいは事業で成功して、名声、財を得る。
 それらのことに意味はあるのか。
 もっと重要なことがあるのではないか。そう考え、真理を追究し思索を深めていく。
これは「アウトサイダー」の典型的なひとつの例である、と言えよう。
 「アウトサイダー」とは、より一般的な「インサイダー」の人々と比べたときに、そういう風に基本的な価値観の異なる人たちのことをいうのである。

 さて、次はそのアウトサイダーという概念に着目しながら『AIR』を見ていくことにしよう。
 ゲームスタート時、国崎往人は旅人である。自分の住む家を持たない。そして、彼は人形劇で生計を立てている。ここで重要な点は、もし彼が選ぶならば、他の職に就いて、より安定した収入を得ることも容易であるということだ。そうすれば、アパートなど、自分の家という拠点を確保することもできるはずだ。しかし、彼はそれを選ばない。
 また、彼は一人で旅を続けている。旅立てば別れるわけだから、恋人などもいない。(この世界は、現在のようなネット社会成立前のものをイメージした描写がされている)
 そして、往人は、「空の少女」を探し続けている。「空の少女」とは、幼いころから彼が母に聞かされ続けてきた伝説だ。翼を持つ少女がこの空のどこかで、たった一人で、風を受け続けている、という。その子を見つけ出し、救うことが、往人の旅の究極の目的なのである。
 これらの特徴はまさに「アウトサイダー」のものである、と言えるだろう。
 「空の少女」のイメージは、孤独のイメージである。人は独りなのだ。往人もまた独りだ。だからこそ、「空の少女」を救うことは、すなわち往人自身を救うことにもつながる。
 通常の幸福の追求とはまた違う別の形で、往人は自分の幸福を追い求めている。
 それが、往人の追い求める真理なのだ。


 そして、往人は『AIR』の物語の中で、少しずつ変容を見せることになる。
 神尾観鈴遠野美凪霧島佳乃の3人の少女と往人との交流により「DREAM編」は展開される。そして「DREAM編」の3つのシナリオでは、往人はそれぞれ別の変化を見せている。アウトサイダーが社会へ、あるいは他者へコミットする際の特徴的な心象その他がそこには見て取れる。
 3人の少女が直面する困難はそれぞれ異なった性質を持っているため、それを解決する過程で、往人に要求される変容の性質もまた異なってくるのだ。
 佳乃シナリオにおいては、往人は最初、最も純粋に孤独なキャラクターであったと言える。選択肢の流れを見ていくと、観鈴美凪とのコミットを選ぶ局面が先にあり、それを選択しないことによって初めて佳乃シナリオへと到達するからだ。
 しかし、このシナリオのラストでは、往人はインサイダーへ転ずることになる。これは、いわゆるボーイ・ミーツ・ガールものの典型の一つとして位置づけることができるだろう。ボーイ・ミーツ・ガールは、多くの物語の主題として扱われてきたものである。それ故に、佳乃シナリオは、多くの読者が比較的容易に受け入れやすい物語となっていると言える。
 他方、観鈴シナリオにおいては、往人は観鈴の家に留まり、観鈴と心の交流を続けることになる。これは、雨露をしのぐ、とか食事を得られる、といった生活上のメリットだけに基づく選択ではない。観鈴を見守っていきたい、という往人の想いから選択された結果なのである。そして、このシナリオでは往人は自分の存在していられる最後の最後まで、観鈴のそばに居続ける。ここでも往人について、やはりアウトサイダーからインサイダーへの転化が行われていると言える。
 往人は「空の少女」が観鈴だと確信するのだ。
 そこで、自分の追求してきた真実と、現実とが重なり合い、往人は彼のゴールを迎えることになる。
 そして、美凪シナリオである。
 ここでは、最終的に、往人と美凪は離れ離れになる。
 しかし、その別れは悲劇としては描かれていない。
 往人も、美凪も、根本の部分でアウトサイダーのまま、わかりあい、そして、望んで別離を行うのである。
 そこには、インサイダー的な一般的な価値観での幸福とは全く異なるアウトサイダーの幸福の姿が描き出されているのだ。
 彼らは、その特異な幸福の境地にどのようにして至ったのだろうか。
 それでは、これから彼らの置かれた境遇と、そこで得られた幸福について、より詳細に見ていくこととする。
 

 
 (2)遠野美凪を縛る「母の夢」

 
 遠野美凪という少女の性格、価値基準、といった内面の部分は一見捉えづらいかもしれない。
 折にふれて、お米券を「進呈」してくれる女の子。美人で背も高く、成績優秀だが、友達はみちる以外にいない。おっとりとした雰囲気で、小声でゆっくりとしゃべる。かわいいものが好き。
 美凪シナリオへの分岐前の段階で彼女についてわかるのは、そういったいかにも表面的かつ断片的な情報のみである。
 そして、往人の捉える美凪の行動は基本的に、放課後にもう一人の快活な少女、みちると二人で一緒に駅舎の周りでのんびりと遊ぶことに限られる。
 そんな穏やかな日常が毎日ただ繰り返されるのだ。
 しかし、シナリオが進むにつれて、美凪は、自分の考え、そしてバックボーンについて少しずつ往人に語り始めることになる。彼女の内面世界が徐々に、しかし克明に描写されていくのだ。
 美凪の家庭事情は実に複雑であった。そして、その過程事情こそが、彼女という存在を形づくってきた。いや、むしろ「彼女という存在を壊し続けてきた」と表現する方が、より適切であろうか。
 美凪は往人と最初に出会ってから一週間ほどの間、自身の過去について触れることはなかった。
 理解されなくても仕方がない。おそらく美凪はそう思っていたのだろう。往人について他の者とは違う、ということを、彼女はおぼろげには理解していた。しかし、自分の事情を受け入れてもらえるという確信は持てなかったのだろう。彼女は、自分を取り巻く不幸の、全ての原因が自分にあると思い込んでいた。だからこそ、十全な自己表現をすることができなかった。それはもちろん往人に対してだけの話ではない。自己を肯定することの出来なかった結果、彼女は自分の生を生きることが出来なくなっていたのである。
 そのため、美凪は、『AIR』の少女たちの中でも最も純粋なアウトサイダーとして生きてきたと言える。
 そう考えていくと、美凪が往人に興味を持ったのは何故なのかも推測できる。美凪は、往人を自分に近しい存在だと感じたのだ。通常の生を生きていない、自分の生を自分の利益のために直接的に使わない人間。魂の距離が近い稀有な相手だと感じたのだ。
 それでも美凪は自分の過去について自分から往人に語ることはなかった。
 そこにはまだ、大きな壁が存在していたのだ。
 こころとこころのあいだの強固な障壁だ。
 しかし、それは不意に破られることになった。
 美凪の家の前で、往人が美凪の母と顔を合わせることになる。
 このとき、母親が、美凪のことを、「みちる」と呼んだのだ。
 そして、美凪の運命の全てが、ここから大きく動き出すことになったのである。
 

 美凪はその後しばらく、往人たちの前に姿を見せなかった。
 彼女の中で、いろいろと整理を付けられないことがあったのだろう。
 そのうち、往人は傍らに美凪がいないという状態に違和感を感じ始める。
 これは往人にとっては特異なことであった。
 この町に来るまで、ずっと独りで旅をしてきたのだ。
 傍らに誰もいないことこそが往人にとって日常であったはずだ。
 しかし、美凪の不在が往人に、彼女の存在の大きさを気づかせる結果となった。
 往人の中に美凪に会いたいという気持ちが少しずつ積もっていく。
 そして、彼は美凪の家を訪れるが、母親にそっけなく追い返される。
 うちには娘などいない、と。
 それは単に往人を追い払おうとする口実などではなかった。美凪の母親の認識のなかで、自分には娘がいない、そう確信した口調だった。
 だからこそ、往人は彼女の言葉を理解できなかった。
 その後、往人は霧島聖に会い、美凪の母が病気だったことを知る。彼女は精神的な病を患っていた。そして、その病が完治したと同時に、自分の娘のことを忘れたのだ、という。

 
 「…記憶喪失…というわけじゃないんだ」
「ただ、夢から覚めたんだよ」


 その後、ふたりは屋上で再会する。このシーンでの美凪の心の動きの描写が興味深い。
 聖のつぶやいた「部活」という言葉一つを頼りに往人が屋上に辿り着くことができたのは、決して偶然ではない。美凪と往人の間に幾ばくかの絆が既に生まれていたからこそ、その言葉の奥の意図に往人は気が付いたのだ。


「…楽に…ですか」
「ああ」
「…楽になってもいいんでしょうか…私」
「たぶんな」


 このやりとりは、その確認の作業だった。往人が美凪の事情を理解しうる、と美凪が信じること、その確認の作業だった。
 だからこそ、それを認めた美凪は、初めて自分の過去について語り始めるのだ。
 美凪は語る。母がかつて妹のみちるを流産したこと。自分がお父さんっ子だったこと、それによって母がずっと寂しさをかかえていたこと。その寂しさが妹のみちるによって埋められるはずだったこと。
 しかし、みちるを失い、母の想いは行き場をなくした。
 そして、母は、夢を見続けることを選んだ。美凪をみちるとして受け入れることで、彼女の内面の認識と現実との辻褄を合わせようとしたのだ。
 その母親の夢のなかでは、美凪はみちるとして生きていかないといけなかった。
 そうしなければ、母は美凪を受け入れてはくれなかったのだ。
 そして、美凪もそれを受け入れたのだという。


美凪「…母に寂しさを抱かせてしまったのは私の罪ですから…」
美凪「…私にできることはそれだけでしたから…」

 
 妹が生まれようとしたとき、母は妊娠中毒にかかり危篤に陥った。幼い美凪はそれを、妹がおいたをしたのだと考えた。そして、美凪は妹に対して、そんなことをするならいなくなってしまえ、と願ったのだ。
 母は助かった。しかし、妹のみちるは流産となり、本当にいなくなった。美凪の願いは叶ってしまったのだ。
 美凪はそのことをずっと悔やんだ。
 その後、それをきっかけに母が病気にかかり、父が家を出ていく。美凪の幸福は一気に崩壊していった。
 そして、美凪は、自分がそれを望んでしまったことにその全てが起因するのではないか、という考えに支配されてしまったのだ。
 理屈の上では、そこに因果関係がないであろうということは美凪にもわかっていたはずだ。
 しかし、妹を失い、それをきっかけに崩壊した自分の幸福。美凪はそれに対して、どこかに怒りのやり場を、責任の追及先を持っていくしかなかったのだ。
 そして、美凪は自らにその矛先を向けた。
 そうして美凪は、母の夢、母の精神を壊さない、という選択を行ったのだ。
 母が、夢を観始めたのも全て自分の責任だと感じたからだ。
 だから美凪は、みちるとして、自分以外の誰かとして生きることを選んだ。
 それは彼女にとっての償いだったと言えよう。
 長い時を経て行われるべき償いとしての悪夢だった。
 しかし、その夢は突然終わる。
母は、眠りの中、夢の中で、みちるの死を受け入れたのだ。
医者によれば、それはよくあるケースだという。
夢の中で現実を知る。
そして、夢を見ることで現実に目覚める。
その過程を経て、母はみちるの死を受け入れた。
 しかし、このとき同時に母は、彼女にとってみちるであった美凪の存在自体を、忘れてしまったのだ。
 美凪は、自分を殺して来たがゆえに、仮初めの自分の存在すら、母親の心のなかから失ってしまったのだ。
 それが、美凪の選択によって導き出された極めて残酷な結果だった。
 往人は、美凪の内心を思いやる。


往人「ここで…自分の居場所を探していたのか?」

 
 しかし、ここで美凪は往人にとって意外な答えを返す。少し長めになるが以下に引用する。

 
美凪「………」
美凪「…違いますよ」
薄い微笑みを浮かべる。
美凪「…私は…ここで終わりを待っていたんです」
往人「終わり?」
美凪「…はい」
美凪「…みちるとして生きてきた…私自身の夢の終わりを待っていたんです」
金網越しの空が、夜の色に染まっていた。
空を見渡すと、彼方の空を彷徨うように飛ぶ一羽の鳥が見えた。
美凪「…私の翼は…もう飛ぶことを忘れてしまったんです」
その鳥を見つめながら、遠野は悲しげな声をもらした。
美凪「…私は…ずっと羽ばたく真似だけを繰り返してきましたから…」
美凪「…いつの間にか…空の広さも…そして大地の温もりさえ忘れてしまいました」
そう言って口元をゆるめた表情は、とても自虐的なものに見えた。
美凪「…飛べない翼に意味はあるんでしょうか」
わずかに視線を俺に向けながら、遠野は言った。
美凪「…きっと何の意味もなくて…空にも大地にも帰ることができず彷徨うだけなんですよ」
美凪「…あの鳥のように…私はいつまでも彷徨うことしかできないんです…」
往人「遠野…」
美凪「…でも…それでいいのかもしれません」
美凪「…だって私は…」
美凪「…私は…ここにいるはずのない人間ですから…」


 美凪は、自分自身である、という基本的なアイデンティティを捨て去ることによって、彼女の考える幸せをつかみ取ろうとした。
 しかし、それが果たして正しいことなのか、美凪はこれまでの生涯の中で常に自問自答してきたのだ。
 そして、美凪の努力によって保たれていた、母親との表面上穏やかな関係は突然崩壊したわけである。
 美凪は、自分が間違っていたのだろう、と考えた。
 彼女の言う、「みちるとして生きてきた…私自身の夢」とは、美凪が表面上を取り繕い虚飾で糊塗してきた、母親との関係性そのものだ。その関係性自体の、現実との乖離を「夢」と表現したのだ。
 「羽ばたく真似だけを繰り返してきましたから」という言葉も、当然ながら美凪がみちるとして生きてきたことについての言及だ。自分以外の人間として生きるなど、所詮仮初めのものでしかない、それは空を飛ぶことには当たらない。ただ羽ばたく真似をすることでしかないのだ。
 自分はこれまで、本質的な意味で生きてはいなかったのだと彼女は言っているのだ。
 だからこそ、夢のように消え去るしかなかった、と。
 それがわかっていても、例え最初から疑念を拭えなかった選択だったとしても、美凪は自分の選択には責任を負う。美凪はその残酷な結果を受け入れようとした。しかし、彼女の人生の多くの部分を費やしてきたものが無に帰したのだ。すぐに気持ちを切り替えて、あっさりと別の道を歩み始めることなど出来るわけがない。
 だから、美凪はただ一人静かに「夢の終わりを待っていた」のだ。

 
 美凪は常に自分の出来ることは何かを考え、選択し、行動してきた。
 だからこそ無意識的に、自分がこの喪失感からも必ず立ち直れるのだ、と認識していたのだろう。
 「ここにいるはずのない」私とは、みちるを演じていたこれまでの自分のことである。
 しかし、美凪は、常にみちるを演じていたわけではない。往人とみちるの前では常に美凪美凪であることが出来た。だとするならば、その美凪は、逆に「ここにいるはずの」私であるのだ。


往人「…居場所がないなんて言うなよ」
俺は、遠野に想いを伝えたいと思った。
往人「おまえを…遠野美凪を待ってる奴がいるんだから…居場所がないなんて言うなよ」

 
 往人は、まだ、この時点では美凪の事情を全て把握しているわけではない。
 しかし、往人は出会ってからずっと、「みちる」としてではない「美凪」としての美凪だけを見てきた。だからこそ出た素直な一言だった。
 だからこそ、その言葉は、その真意は、美凪に届くのだ。
 美凪は小さく笑顔を見せた。
 それはきっと、この上なく美しい笑顔だったであろう。


 思うに、美凪という人間は、自分がどう生きるべきなのかということを、常に考えるよう強制されていたのだ。
 自分の幸せとは何なのか。幸せというものを、単純に生活基盤のプラスαとして捉えることが出来ない彼女は、常に何かを捨て去ることでしか幸福を掴むことが出来ないのだ。
 まさにアウトサイダーである。
 そして、ここで重要なのは、美凪をとりまく事情は特殊でありながら、彼女は生命の危機にさらされてはいない、ということである。
 生命の危機にさらされたなら、人は自動的にその危機を回避するために全力をそそぐことになる。その場合、選択の余地はなくなる。この場合は、アウトサイダー的な人間も、インサイダー的な人間と同様に、純粋な充足感を得ることが可能となる。かつてアラブ人の反乱を支援したトーマス・エドワード・ロレンスなどの戦場体験は、その典型例と言えるだろう。
 同様の例として、鬼頭莫宏「ぼくらの」における契約者の子どもたちにも同じことが言えるだろう。
 彼らは近づいた死に強制された形で決断を行うことになる。しかし、その裁量権の幅は、あきらかに狭められている。ごく近い将来、死が訪れることが確定した、という状況において、個人が取り得る行動は、極めて限られたものになるのだ。
 それに比べて美凪の場合はどうだろうか。生命の危機に瀕していない、ということは、彼女は、「ぼくらの」の子ども達よりも恵まれた状況にある、と言うことはできるだろう。
 しかし、逆にこうも考えられないだろうか、美凪は何の指針も与えられず、この世界にただ独り、絶望とともに放り出されてしまったのだと。
 人は自分の将来のためになると考えるからこそ、目標を立て、計画を立てて行動することが可能となる。しかし、美凪は、「自分のために」行動することを、「半ば」否定されてしまったのである。そして、自己を否定するか、母を否定するか、その「選択」の余地は残されていた。
 あまりに苛烈な決断を迫られたのである。
 そして、常に苛烈な決断を迫られ続けたのである。


 それは、どれほど過酷な日々の連続だっただろう。


 しかし、それでも美凪は、選択した。母親と生きるために、自分を捨てる。という極めて重い決断を。
 それは、「ぼくらの」において、カナとウシロの父、教師の宇白が語った「考える」ことをひたすら続けたその先に辿り着いたものであった。


「考えなさい」
(それは人間に与えられた最高の娯楽なんだよ。特に中学くらいの年代にとってはとても大切なんだ。それは人生に於いて、最高の思考の喜びを与えられた瞬間。日本のような先進国に限定される話ではあるけれど、今日の食事を得るために思考力を使わなくていい期間。それは生物が生存していく観点からみれば極めて特殊なことだ。大概の生物は食事を得るためにその思考のほとんどを使う。そして実はそれは人間の大人も全く変わりがない。大人も今日の自分の食事を得るために考えているに過ぎない。他の動物となんら変わりのないレベル。大人の思考は実質動物と変わらない。でも子供の期間はちがう。自分が生きることに直接かかわりのないどうでもいいくだらないことに、悩める期間。)
「ぼくらの」9巻P85より


 「ぼくらの」の子どもたちと美凪とでは戦いのステージが異なるのだと言えるだろう。
 それは、短距離走長距離走との違いのようなものである。
 「ぼくらの」の子どもたちは、避けることのできない死を与えられる。自分の生に期限を与えられることによって、彼らは自分の生を意識する。
 自分の今までの生を再度、厳密に評価し、その上で、迫る死の瞬間までの期間、自分に出来ることはなにか、自分がすべきことはなにかを考え、その発露として行動が綴られていく。
 こうした条件の元では、その行動はより洗練されたものとなるだろう。ゴールを明確に設定されることにより、そこまでの生をより高いスピードで駆け抜けることが出来る。それは短距離走の美しさに相似だ。『AIR』でいえば、観鈴の生は最終的にこのスタイルを取った、とも言えるだろう。
 これに対して美凪は、より長いスパンでベストを尽くすことは何か、という別の困難な課題に取り組んだのだ。
 全力で充実した生を送ることは不可能ではない。しかし、100m走を走る速度でフルマラソンを走りきることは出来ない。そんなことをしても、結果としてただ倒れるだけなのだ。
 美凪は自分の存在を母に主張し、母の夢を壊すことだって可能だったに違いない。
 しかし、それは常に、母自身を壊してしまう恐れとともにある選択だった。
 美凪は、それを選ぶことは出来なかった。
100mを走り終えた、その後も美凪の人生は続くのである。

 
 そして美凪は、はるか遠くのゴールを目指し、走り続けることを選び取った。
 それ故に彼女は、ただはばたく真似をするだけだと知りながら、「みちる」として母と生きることを選びとったのである。


 これが、美凪の内面のうち「母の夢」のファクターの部分である。
 そして、もう一つの「夢」が美凪の中にはあった。
屋上での再会の後、夜、家出してきた美凪はいう。


美凪「…さっき言いましたよね…夢の終わりを待ってるって」
美凪「…母の夢は終わりましたけど…まだ私の夢は覚めていないんです」


 さきほど、美凪は常に何かを捨て去ることでしか幸福を掴むことが出来ない、と述べた。
 その、何かの犠牲のうえに成り立つ幸せのことを、美凪は「夢」と表現している。
 「母の夢」は覚めた。しかし、「私の夢」は覚めていない、と美凪はいう。
 この時点では往人も、そして読者も美凪のいう「私の夢」が指し示すものが何なのか、明確に把握することはできない。
 しかし、美凪シナリオのその後において、もう一人の少女、みちるの事情が判明してくることで、美凪の苦悩の実情に更に迫ることが可能となる。次はそこに着目してみよう。
 

 
 (3)みちると美凪と「私の夢」

 
 美凪の亡くなった妹と同じ名を持つ少女、みちる。
 彼女が、みちるという名を持つことは決して偶然によるものではなかった。
 みちるは、美凪の妹みちるが「空の少女」の羽の力でこの世に現れることが出来た、仮初めの存在であった。


みちる「みちるはね…その子の悲しい夢のかけらなんだよ」
みちる「ううん…ちょっとちがうか…」
みちる「みちるは、その子の夢を少しだけわけてもらったの」
みちる「その子の背中には、とても傷ついた羽があって…」
みちる「その羽には、すごくふしぎな力があるの」
みちる「いっぱいの人たちが見た、いっぱいの思い出が、その羽にはつまっているんだよ」
みちる「でも…すごくかわいそうだった」
みちる「だから…たすけてあげたいとおもったの…」


 ここでみちるのいう「女の子」と、往人の求める「空の少女」とは、イメージが重なる。
彼女の背中には翼があった。みちるは、その翼を形づくる羽には、多くの人たちが見た、多くの思い出がつまっているのだ、という。
 その思い出が悲しみに満ちていて、その悲しみが伝わるからこそ、「空の少女」もまた、悲しみに包まれている。
 みちるは、その女の子を助けてあげたいと思った。
 悲しみで一杯の羽。その悲しみを幸せに変えることが出来たなら、空の少女は、その幸せな夢を見ることが出来るのではないか。
 みちるが少女にわけてもらった一枚の羽は、おそらく遠野美凪の思い出が詰まったものだったのだろう。
 みちるは、そう、生まれてくることのできなかった、美凪の妹は、そうして、美凪と共通の思い出を持ち、この世に現れた。
 おそらく、その思い出とは、存在の構成情報そのものだったのだろう。構成情報を得たことにより、みちるは、自らの生では生まれ出ることの出来なかった、この世界に改めて生まれ出ることが出来たのだ。
 そうしてみちるは美凪の前に現れた。
 当時、母のために「みちる」として生きることを選択した美凪は、しかし、孤独に陥ることとなっていた。本来の「美凪」として同級生らに対することに大きな壁が生じてしまったのだ。
 もちろん大きな破綻の起きぬよう、彼女は美凪として学校生活を送ったはずだ。
 しかし、それはやはり上辺だけを糊塗する結果に終始していたのだろう。
 美凪は、次第に、自己を美凪として認めることにさえ違和感を生じるようになってしまっていたのである。
 その美凪の前にみちるは現れた。
 彼女の存在は当時の美凪にとって、根本的な救いとなったと言える。
 美凪は母の求めるとおりにみちるとして振る舞おうとした。しかし、同時に心のどこかではそれを完全に受け入れることは出来ていなかった。
 しかし、みちると自ら名乗る少女と出会うことによって、美凪である自分を自分自身として取り戻すことが出来たのだ。美凪アイデンティティを取り戻すことが出来た。それは人間としては当たり前に享受し得るものであったが、満たされぬ当時の美凪にとっては全能感に近いカタルシスを与えてくれる事象であっただろう。
 しかし、それこそが美凪のいう「私の夢」なのだ。
 美凪にとって、自分が美凪であることはこの上ない幸福であった。しかし、それはみちるの前でだけに限定される至福であった。
 そして、美凪は、みちるが本来この世界のどこにも存在しないはずなのだと、気づいていた。
 この至福は、決していつまでも続くものではない。いつ消えてしまうかもわからない。
 いつ目が覚めるかも知れない。だから、美凪はこの彼女の至福を「私の夢」と表現したのだ。
 その至福は儚い。それはこのシナリオ内でモチーフとして多用されているシャボン玉に象徴されている。
 シャボン玉はしばらく宙に浮かんで消える。消えるときはあっけない。しかも消える直前までは、全く変わらない美しさを有したままだ。
 美凪は、自分に訪れた至福を、シャボン玉のようなものだと認識していた。
 そして、だからこそ、いつかは消えゆくその至福の時を、夢の中の時間を、精一杯生きようとしたのだ。みちると一緒に今まで通り、ハンバーグを頬張り、シャボン玉を飛ばして遊び、校舎の屋上で、降るような星々の美しさを愛でた。目を醒ました後にも、素晴らしい思い出になるように。
 また、ここで美凪やみちるのいう夢とは、可能性そのものを指す、とも言えるだろう。
将来の夢とは、目標であり、実現出来るかもしれないこと、である。
そして、それは失敗に終わった場合、幻想となる。
美凪は自分の夢である、みちるとの関係性、それを精一杯幸せなものにしようとした。
それは母との失敗を経て、今度は同じ轍を踏むまい、と考えたからだ。
そこには、自分と相手の充足が両方ともに存在しなければならないのだ。
 夢はいつか覚めなければいけない。それが現実にならない限りは。
 美凪は、終わりが来ることを前提としても、みちるという夢が最大限、現実に近いものであり続けられるよう全力を尽くしたのだ。
 しかし、家出をし、駅舎に泊まり込み、みちるや往人と暮らそうとする美凪の行動には無理があった。
 それは結果的に、母の存在を無視した選択であったからだ。
 みちるはその不自然さを気にし始める。
 みちるは、美凪の意図を理解し、それが美凪のみちる自身を大切に思う気持ちから出た行動だ、ということを踏まえながら、それでも夢は覚めないといけない、という結論に至る。
 みちるは元々、この世界にはいるはずのない存在だった。
 そのみちるを優先して、美凪が母を蔑ろにしている現在の状態は正常とは言い難い。
 母は美凪の存在を忘れてしまった。しかし、いつか思い出すこともあるだろう。
 そして、現状が十全でないということには美凪も薄々気づいていた。
 だからこそ、無理に明るく振る舞う結果になっていたのだ。
 それは美凪が、自分の運命の都合の悪い部分から、ただ目を背けているだけになってはいないだろうか。それは、往人のアウトサイダー故の気づきだった。
 そして往人は、即座に行動に出る。美凪と一緒に町を出るふりをして、美凪を彼女の母が待つ家へと連れていくのだ。
 どうするのか、最後はお前が決めろという往人。一緒に旅に出るのか、一人でどこかへ行くのか。


往人「それとも…おまえのいるべき場所へ帰るのか。選択は自由だ」
美凪「…私が…決める…?」
往人「そうだ。遠野美凪自身の意思で決めるんだ」
美凪「…美凪…?」


 ちなみに、ここで初めて往人は美凪美凪と呼んだ。それまでは「遠野」と呼んでいた。だから、これは「美凪」としての美凪への語りかけだったと言える。
 母に忘れられたままで、その後悔を背負って生きていくことが、美凪の望むものなのか、と再度問うているのだ。
 美凪は過去をもう一度ゆっくりと、深く、深く振り返る。
 そして、自分の帰るべき家を選ぶのだ。

 
 庭に彼女はいた。
 母はゆっくりと美凪の名を呼ぶ。
 彼女は美凪を思い出したのだ。
 美凪は自分がどこにもいない、と感じていた。特に母の前では、自分が存在できない、と感じていた。
 しかし、同時にそう考える美凪は存在していた。それは事実として変わらない。
 例え、認識されなかったように見えても、美凪が母とともに懸命に生きた、という事実は消え去らないのだ。
 最初は美凪として、途中からはみちるとして、常に側にいた美凪の存在は母の記憶の奥底にはっきりと刻み込まれていたのだ。
 だからこそ、母は美凪を思い出すのだ。それは奇跡でもご都合主義でもなんでもない。
 それは必然だ。
 それが、美凪が現実のものとして、アイデンティティそのものを獲得した、その証だからだ。
 それこそが彼女の辿り着くべき場所だった。
 辿り着くべき場所に還る美凪を、往人は充実感を持って見送った。


口笛を吹いてみる。
『飛べない翼に意味はあるんでしょうか』
遠野の言葉を、不意に思い出す。
往人(…意味はあるさ)
往人(それが、空を飛んでいた日々の大切な思い出だからな)

 
それは往人にとって最高の祝福の言葉だったと言えるだろう。
ここにも『AIR』という物語の特徴が見られる。
愛すべき少女が還るべき場所は、必ずしも自分の元でなくても良いのだ。
美凪がただ、自分の至福とともに存在できる場所へ還った。そのことそのものが往人の至福なのである。
 これはアウトサイダーの求める至福の形の一例を示すものであろう。
 そして、現実の中に自己を回復した美凪は、自己の外へと向き合うことになる。その視線の先にはみちるがいた。
 美凪とみちるは似た姉妹だった。両方ともに、母を見失い、辿り着けない姉妹だった。美凪は自分が辿り着いて初めてそれを認識する。
 そして、今のみちるに欠けているものにも思い当たるのだ。
 だから、美凪はみちるを家に誘う。みちるが得たくて得られなかった母がそこにはいる。
 得られないものを見せつけられることがみちるにとってよいことなのか。ただ苛立たしさ、せつなさをかきたてるだけなのじゃないか。美凪のなかで葛藤があった。しかし、それはみちるにとって最終的に避けて通るべきところではない。美凪はそう決断したのだ。
 そして、みちるもまた、母に受け入れられる。
 もちろん、自分の死んだ娘が帰ってきたものとして受け入れられたわけではない。母は、みちるを美凪の友達として迎えたに過ぎない。
 しかし、母の中での位置づけに関係なく、みちるは、どんなに望んでも得られなった家族の団欒を一度なりとも手に入れることが出来たのだ。
 みちるは常に他者、美凪や母が幸せであること、それだけを考え、それを優先して行動し続けていた。その根本には、自分が生まれてくることが出来なかった、仮初めの生を今は生きているからだ、という自覚があったからだ。

 
 この辺りを見るに、みちると美凪は本当に似ている境遇にあったのだ、と再認識させられる。
 きちんとこの世界に生まれ、人生を生きながら自分というアイデンティティを失っていた美凪
 自分を失わず、常にみちるであり続けながら、実際にはこの世界に生まれることが出来なかったみちる。
 校舎の屋上の二人の別れのシーンで、髪留めを外したみちるが美凪と外見的にも似ているように見える、という描写があるが、これは、二人の内面的な相似性を表現したものなのだろう。


 二人が求めていた、辿り着くべき場所。それは、ただ自分としてこの世界を生きる、ということに他ならない。
 それは他の多くの人間ならば、労せずして立つことの出来る場所であるに過ぎない。

 
 では、彼女たちの葛藤は、辛苦は、無意味だっただろうか。
 否だ。否と言おう。
 彼女たちは、そうであったからこそ、その過程で多くのものを得た。
 アウトサイダーとして多くのものを得ることが出来たのだ。


 姉妹の別れの場面から見てみよう。
この場面では、これまでに美凪とみちるが得てきたものが集約されて表現されていると言えるだろう。


美凪「…私はみちるのお陰で、私でいれた…」
美凪「…でも…私はみちるに何をしてあげれたのかな…」
みちる「美凪はみちるに、大事なものをたくさんくれたよ」
みちる「美凪はみちるに、たくさん笑ってくれたもん」
みちる「みちるね、美凪の笑ってる顔好きだよ」
みちる「美凪の笑ってる顔をみると、心があったかくなるもん」


 みちるは美凪に笑顔をもらった、という。
 それは、かつてみちるの得られなかった家、家族そのものの象徴だろう。
 美凪はしかし、みちるがいなくなったら、上手に笑えない、という。
 美凪の認識の中ではまだ、アイデンティティの存続にみちるが必要なのだと感じている部分が残っていたのだ。
 しかし、これまで見てきたように美凪のなかでは、既に現実の中に立つべき足場は既にできている。
 だから、みちるは、美凪が、みちる以外の人に笑えるようになっている、と指摘する。
 少なくとも往人の前で笑うことの出来ている美凪は存在する。
 みちるが往人へ話を向けたのは、それを意識してのことだ。
 そして往人もまた、自分の見た美凪の笑顔が「遠野美凪」の笑顔そのものだと確信していた。だから、往人も肯定した。


往人「俺の前で見せた笑顔は、本物じゃないのか?」
往人「あれは、遠野美凪が俺に向けてくれた笑顔だろ?」


 往人は「アウトサイダー」だ。他の何にも属さず、町から町へと、本当にいるかどうかもわからない、空の少女を探して旅を続けてきた。
 その往人が、美凪やみちると出会って初めて、この時間がずっと続けばいい、と願った。往人にとってもまた、それは一つの夢であったのだろう。
そして、みちるは、二人に約束しよう、と持ちかける。
みちるから二人への願いだと。


みちる「国崎往人は大事な人をずっとさがしているんでしょ?」
往人「…ああ…」
みちる「あのね、その子を見つけてあげて」
みちる「その子は、ずっと国崎往人が来るのを待ってるから」
みちる「遠い空の上で、ずっと悲しい夢を見続けながら待ってるから」
みちる「早く、見つけてあげて」
往人「…ああ、わかってる」
みちる「みちるは、一足先にその子の所に戻るから」
みちる「美凪国崎往人にもらった楽しい思い出を持って、その子の所に戻ってるから」
往人「…ああ」
みちる「それでね…」
みちる「国崎往人がその子を見つけたら、伝えてあげて欲しいの」
みちる「もっとたくさんの楽しいことを」
みちる「悲しい夢から、解放してあげて」
往人「………」
往人「ああ、約束だ」


 みちるは、往人に対して、空の少女を見つけることを願った。ここで重要なのは、往人に美凪を頼む、というニュアンスが全くない、ということだ。
 これはみちるが、美凪の幸福に、往人が美凪のそばに居続けることが必要な要素ではない、ということに気づいていることを示している。みちるもアウトサイダーだからこそ、アウトサイダーとしての美凪の幸福を、過たずイメージできたのだ。


みちる「でね、美凪
みちる「美凪は…」
みちる「笑っていて」
美凪「………」
みちる「美凪はいつも笑っていてね」
みちる「笑ってばいばいして…」
みちる「そしてそのまま、笑い続けて…」
みちる「美凪は、笑ってるほうがいいから」
みちる「みちるは、笑ってる美凪が大好きだから」
美凪「………」


だからこそ、美凪が笑っていること、美凪美凪であること、ただそれだけをみちるは願うのだ。


美凪「…言え…ない…」
美凪「…笑ってさよならなんて…言えない…」
みちる「………」
美凪「…笑ってさよならなんて…」
みちる「…美凪…」
美凪「だって…もう逢えなくなるんだから…」

 これに対し、美凪はみちるとの別れを惜しむ気持ちを抑えきれない。
 自分に自分であることを与えてくれた。そしてずっと果たせなかった姉としての役割を与えてくれたみちる。
 何者でも無い自分を頼ってくれたみちる。そのおかげで、美凪は人として成長することが出来たのだ。
 そのみちるを失う悲しみ、そして、みちるのいない明日への不安。いろいろなものが混じり合い、溶け合って、美凪の笑顔を妨げていた。

みちる「大丈夫だよ。みちるがいなくなっても…」
みちる「夢がさめても、思い出は残るから」
みちる「思い出があるかぎり、みちるはいつも美凪と一緒だよ」


 しかし、本当は美凪も既に知っているはずなのだ。みちるとして生きた美凪が母親の中で消えなかったのと同じように、夢がさめても、みちるがこの世界から消え去っても、みちるの存在もまた、美凪の中から消え去ることはない。思い出として残るのだ。ただ直接会って話をしたりはできない。それだけのことなのだ、と。

 
美凪「ねぇ…」
美凪「みちるも笑ってる?」
みちる「うん、笑ってる」
美凪「泣いてなんかない?」
みちる「うん、泣いてないよ」
美凪「別れは…辛くない?」
みちる「うん、辛くない」
みちる「だって…」
みちる「笑ってるもん」


 みちるもまた泣いていた。全てを理解していたとしても、逢えなくなるのはやはり辛さを伴うことだった。実質的に美凪はみちるの唯一の家族だったからだ。
そして……。


美凪「うん…」
みちる「笑顔は、人の心をあったかくしてくれるから」
美凪「うん…」
みちる「ずっとずっと笑い続けて…」
みちる「世界がたくさんの笑顔でいっぱいになって…」
みちる「みんなが、あったかくなって生きていけたらいいね…」
美凪「………」


 みちるの願い。この世に生まれ出ることの許されなかった少女。世界に拒否された少女が、世界そのものの幸せを、世界の全ての生の幸福を純粋に願える。その美しさに胸を打たれる。
 いや、彼女は、この世に拒否されたからこそ、かえってその世界をまっすぐに、混じりけのない眼で見つめることが出来たのだろう。
そのみちるの言葉に、美凪がひとこと応えたとき……、既にみちるは消えていた。
美凪の夢は、このとき覚めたのである。


美凪「みちる…ばいばい…」


 夢は終わった。
 みちるは消え去った。
 しかし、3人は、既に思い出となった駅舎での日々で多くのものを得た。
 それが何だったのか、続けてエピローグを見ていくことにする。


 その後、夏休みの終わり頃に、往人は旅立ちを決意する。
 ようやく町を離れるための路銀が貯まったのだ。
 旅立ちは、しかし、美凪との別れを意味するものだった。
 決して往人のなかで美凪の存在が軽いものであったわけではない。
 単にみちるとの約束だから、というわけでもない。
 「空の少女」を探し求めること、それが、往人の中で最も主要な位置を為す目的であったからだ。
 それが他の何ものにも優先し得るものだったからだ。
 それは往人個人由来のものでもあり、往人が唯一帰属してきた、法術の一族との、直接的には母との絆であった。「空の少女」の元こそが、往人の辿り着くべき場所であったのだ。
 それが往人の人生そのものであったからだ。
勿論それをみちるも感じ取っていたからこそ、往人と「空の少女」を見つけて、と約束したのだろう。
 そして、美凪もまた、辿り着くべき場所を母と一緒に住む家に見出した。
 彼女は母と一緒に、美凪として、自分の居場所を作り上げていく。今まで出来なかった、当たり前の時間を、もう一度積み上げていくことを選んだのだ。
 それもまた、美凪にとって欠くことの出来ない生きる指針となっていた。
 だからこそ、双方の辿り着くべき場所が食い違う以上、別れが起こるのは必然のことだった。
 しかし、往人と美凪の両者にとってこの別れは決して悲しみを伴うものではなかった。
 往人はわかっていた。


でも、この別れは悲しくない。
寂しいけれど、悲しくはない。
俺たちは、もう知っているから。
たとえ、どんなに離れていようと、俺たちの間を隔てるものは、空気だけだということを。
そして、望みさえすれば、いつだって氷が溶けてゆくようにその距離を埋めていけるということを。


 そう。物理的な距離を置く、ということは、さほど重要な意味を持たないのだ。
 障壁になるのは、もう逢えない、逢うことができない、と思いこむ心のみなのだ。
 この世から消えてもなお、思い出は残る。この世界でともに生きている限り、逢えないということはない。互いを想うことで、いつだって「逢える」のだ。
 そして、往人は約束する。「空の少女」を見つけたら、その後、必ず美凪の元へ戻ってくる、と。


 そして、美凪もまた、自分の生を歩み出す。
 美凪もまた、みちるとの約束を守ろうとしていた。
 みちるとの思い出を、ずっと楽しい思い出にするために、自分の生を精一杯生きる。笑顔でいられるような毎日をつくりあげていく。
 だから、美凪は往人の別れを前にしても、笑顔を見せることが出来ていたのだ。
 そして、美凪は往人に重大発表がある、という。
 父からの手紙が来た。そしてそのなかに、父の娘、すなわち、美凪の異母妹がいることが書かれていた、というのだ。


 情景は美凪と、その妹との出逢いのシーンへと跳ぶ。


……そうだ。
あきらめる必要なんてない。
失敗したなら、やり直せばいい。
手が届かないのなら、届く場所まで歩いていけばいい。
だって、私たちは…。
そうすることで、ようやくここに辿り着くことができたのだから。
そうすることで、思い出すことができたのだから。
誰もが持っているはずの、ありふれた優しさを…。
温もりとともに生きていけることの喜びを…。


 美凪は一歩ずつ歩いていく。そう、それは、回復の道程。誰もが当たり前に持っているはずのいろいろなもの。美凪が、不運にも手に出来なかったものたち。
 でも、焦る必要はない。これからでも得られるのだ。ゆっくりと、一つずつ、手に入れて行けばいい。
 今まで、感じることができなかったとしても、この世界は、いつだって、ぬくもりに満ちているのだから。


「ねえ、あなたのお名前、おしえてもらえないかな」
「んに?なまえ?」
「うん」
「にゃはは、いいよー」
「あのね、みちるはね、みちるっていうの」


 ………。
 そう。
 はじまりは、いつだって小さな勇気から。
 たった一言の願いから、幸せははじまるものだから…。
 だから…。
美凪「さあ、みちる」
だから、私は最後にこう言う。
美凪「お友達になりましょう」


 美凪は歩き出した。自分の人生を、再び歩み始めた。
 失敗もするだろう。辛いことだって、これからいくつでもあるだろう。
 でも、常に温もりはともにある。
 例え、嵐が吹き荒れていても、その雲の上にはいつも青空が広がっているのだ。
 それを美凪は忘れない。だから力強く生きていけるのだ。



 (4)おわりに


 さて、この物語が読者に対して、どういう効果をもたらすのか、という切り口で最後にもう少しだけ書き添えて、この評論を終えようと思う。


永遠ではないかぎり、いつかは訪れる別れ。
それは、この日常においても変わることがない。
別れと背中合わせの日常が目の前にあって、俺たちは毎日をその中で過ごしてる。
だとしたら…。
それは、いつかは覚める夢と、どれほどの違いがあるというのだろうか。
同じだ。
俺たちは、いつだって夢の中にいる。
夢も現も、何ひとつ変わりはない。
だからこそ……。
夢が終わるとき、その先にはいったい何があるのかを知りたいと思った。


 往人のモノローグである。みちると美凪と自分の関係について思考したものである。
 往人は、みちるについて、いつかこの世から消え去るであろうことは確信している。
 しかし、それはこの世に生まれて、そして死んでいく通常の一生と何が変わるのだろうか。みちるが例え、消え失せたとしても、彼女が生きた証として思い出は残るのだ。
それは、不慮の事故によりこの世を去ることになった人の場合と何の違いがあるのだろうか。
 往人は、そこに違いはない、と言っているのだ。
 そして。
 だとするならば、同じことがフィクションと、その読者の属する現実の世界との間にも言えないだろうか。
 美凪が、みちるが、そして往人が懸命に生きたことを私たちは知っている。
 その記憶もまた、存在を否定できないのではないか。
 私たちと彼らを分かつものは、やはり、心理上の障壁しかないのだ。
 私たちは、もう知っているはずだ。
 たとえ、どんなに離れていようと、私たちの間を隔てるものは、空気だけだということを。
 そして、望みさえすれば、いつだって氷が溶けてゆくようにその距離を埋めていけるということを。


 だからこそ、私たちは物語に接し、多くのまたとない知己と出会うことが出来るのだ。

 
 美凪は、みちるは、そして往人は、そういう祝福を読者に与えてくれたのだ。


 ありがとう。


(了)
(B.G.M.  「Farewell song」)

コリンウィルソン「アウトサイダー」読了と、自分の評論同人誌のこと

アウトサイダー (集英社文庫)

アウトサイダー (集英社文庫)


 「アウトサイダー」読了しました。
 面白かったです。
 専門用語が難解なので、全ての意味を理解できたわけではないですが、
 主題的な部分は掴めたかな、と思っています。

 ここで言うアウトサイダーとは、
 社会構造の外側に自分を置こうとする特性を持った人間のことです。

 こういう人々は、そうでない社会の内にある人々からは、変り者、はみ出し者、協調性がない、空気読めない、等々の印象を持たれるでしょう。

 そして、社会に適合していこうとする努力を放棄している、怠惰な人間だ、というレッテルを貼られてしまうかもしれません。

 しかし、そもそも、その前提としての、努力して社会生活を送らなければならない、という前提は不変不動のものなんでしょうか。

 この問題提起に、否、と確信を持って答える、それがアウトサイダーなのです。
 それに対し、社会に参画して行くこと以外の選択肢は無い、と考えるのがインサイダーであるといえるでしょう。

 コリン・ウィルソンが、著書のなかで提示している、アウトサイダー、インサイダーの定義は、かなり複雑なので、さきほど挙げた説明では抜け落ちているニュアンスも多くありますが、おおまかに、アウトサイダーというものはそういう人々のことです。
 

 ちなみに私もアウトサイダーです。
 少なくとも、アウトサイダーの考え方に大いに共感する人間です。

 しかし、当然ながら、私は社会を否定するわけではありません。
 生命を維持するためにはなんらかの社会参画が必要なことは理解していますし、実践もしています。
 他の人々の存在を軽視するつもりもありません。他者と、いろいろと語り合うことの楽しさ、意義の深さは痛感するところです。

 その上で、ただ一人、思索にふけり、思想を突き詰めたいという堪えられぬ欲求は捨てられないです。

 「プラネテス」のラストでハチマキは「 愛し合うことだけがどうしてもやめられない」と語りました。

 それは彼にとっての真実でしょう。
 しかし、それは人間の一側面でしかない。

 「うみねこのなく頃に散」EP8で戦人が、魔法か手品か、どちらを選ぶかを縁寿に迫ったのも同様です。
 そこにはインサイダーの思考に凝り固まった人間の姿があるのです。

 むろん、幸村さんはロック・スミスを配置し、竜騎士さんは、あえて「手品」を選ぶ縁寿を描いた。
 作者自身は別にインサイダーの思考に囚われているわけではない。

 しかし、描写の仕方に、インサイダー優位の思考をどうしても感じてしまう。


 「AIR」の様にアウトサイダー優位の作品というものは決して多くない。

 そういう意味でも、「まどかマギカ」の存在意義は大きい。

 改めてそう思います。


 とりあえず、評論同人誌「AIRの真実」は原稿用紙20枚分ぐらい書きましたが、再構成中です。
 観鈴の内面の解釈の前提としてアウトサイダーの概念を盛り込みます。
 
 プロットは大体出来上がりました。 

 でもやっぱ、現状だとたぶん「まどマギ」をメインに持ってこないと読んでもらえないだろうから、「まどマギ」評論の一部にする予定です>「AIRの真実」。
 今の構想だと「AIRの真実」自体は50枚ぐらいかな。そんなに長くはならない予定です。



iPad 2発売らしいですね。

iPad 2は既にもう持ってます(海外版ね)。何週間か使ってみましたが、これはよいですよ。マジで。でもまぁ、この感覚は使ってみないと絶対わからんと思いますし、利用しようという意志も必要でしょうけど。宮崎駿さんはまぁ確かに彼は紙と鉛筆さえあればそれでいいんだろうけど、iPadを実際に使ってみたらたぶん違うことを言うはず。


iPadの優位点を幾つかあげてみる。
WindowsPCに対して
・フォントの表示が綺麗。特に明朝体とか線の太さが均一でない字体は差が大きい。
・立ち上げが早い。ボタンを押せばすぐ使用可能。
・タッチパネルの反応が早く、的確。より細かい制御が可能。しかもエラーは皆無に近い。
・同程度の表示機能を持つPCよりは薄く軽い。


というところでしょうか。


正直もうネットブック使う意味ないっすよ。
全てにおいてiPadが上位互換しているといっても過言ではない。
長文入力に弱いという話もあるけど、日記更新レベルだったら全く問題ないし、
こだわるんだったら別途キーボードをつなげればいいだけだし。
インターフェイスも別途用意すればUSBにもSDカードにも対応するし。


 正直なんの不満もない。


 カメラの画質は悪いかもしれんが、画質にこだわるんならコンデジぐらい別に持て、って話だし。


 ということで、全力でiPad2はお勧めです。(まぁ旧iPadでもいいのかもしませんが)

 あと、これで読むと、電子書籍も不便なイメージはなくなりますね。むしろ便利だと感じます。

WindowsPC上で電子書籍見て、ダメだこりゃ、と思ってたけど、電子書籍サーセンて感じです。