(ネタバレ注意!!)「魔法少女まどか☆マギカ」完結


 ついにまどマギ完結しましたね〜。
 いや〜素晴らしかった。


 でも、ネットをまわってみると、あのラストに苦言を呈している方がたくさんいらっしゃるようです。
 まぁ、捉え方には個人差が出てきますので、いろんな意見があって当然です。


 その意見のなかで印象に残るのは
 結局まどかは犠牲になってしまったじゃないか。
 まどかが救われて初めて大団円になるのじゃないか、


 つまり、具体的、物理的事象においてヒロインが救われないといけないのではないか、という意見です。


 それはそれで、すごくもっともな意見です。


しかし、何をもって「救われた」とすべきか、ということは、一意に定義づけられないのではないか、とも思うのですよね。
戦いの無い日常を友人や恋人、家族と一緒に大過なく暮らしていき、そして年老いて死ぬ。
はたして、それ「のみ」が、個人が救われる条件に値するのでしょうか?


 「まどかマギカ」では、その「救われる」条件を満たすことのできない少女が多く登場します。
 しかし、彼女たちは、本当に救われなかったのでしょうか。


 私はそうは思いませんでした。


ネット等により全世界の個人それぞれが同格につながり得る現代社会。
それを念頭におくと、「幸せ」という価値観も多様化し変容していきます。
グローバルな人類全体というものへの直接帰属意識というものを、実感しえる土壌が育ってきています。
その現状に、どう生きるべきか、その指針を見出していくことが、人間個人にとって喫緊の課題だと私は感じています。
その前提を踏まえると、まどかの至った決断は、彼女の立場、能力から導き出される最善の選択の一つだと感じました。

 
そして、ほむらに関しても。


まどかはヒト、個人としての存在は消滅しました。
しかし、ほむらから、まどかの与えた影響がすべて消滅したわけではありません。
ほむらの想いはまどかに伝わり、だからこそ、世界は書き換えられた。
私はそこに、明確に「救い」の存在を感じます。
そして、ほむらは自分の道を一歩ずつ、力強く踏みしめている。
大気に還ったまどかとともに、彼女は自分の生を全うできるだろう。


 確かに、まどかは犠牲になりました。


 しかし、それは嘆くべきことでは決してない。


 私はそう心から感じるのです。


「魔法少女まどか☆マギカ」完結(ネタバレなし、のつもり)

 アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」がこのたび完結を迎えた。


 この物語が何故ひとの心を打つのか。

 それは、現実の、人間社会の構造を的確に反映した写し絵となっているからだ。


 人は皆、絶望とともにある。

 挫折を体験せし者は、それを再び繰り返すことに怯え、

 挫折を経験せぬ者は、まだ見ぬそれを恐れ、慄く。


 だから、人は目を背ける。

 ありのままの、この世界の構造、黄金律、因果。

 それを、その身に受け入れるため、甘いオブラートで包みこむ。

 そして、文化というものが形成されてきた。

 物語が形成されてきた。


 しかし、人間社会はまさに、変革のときを迎えている。

 人と人との関係性は大きく変貌を遂げた。

 イエ、ムラ、クニ、そしてセカイ。

 その積み上げ「のみ」で成り立つ世界は既に終焉を迎えている。


 もうしばらくすれば、すべてのヒトはそれに気づくだろう。

 いや、それを当たり前のこととして受け止めるのだろう。

 しかし、今はまだ、その時ではない。

 
 だから既存の社会構造観に基づいた物語が、今も多く紡がれ続けている。


 けれども、現在においては、

 それらの物語は既に「絶対的な」力を失っているのだ。

 世界の本質を外してしまっているのだ。

 
 しかし、未だ、この状況は多数の者には明確に認識されていない。

 それ故に、既存の物語もまた、自然に受け入れられている。

 そして、それら既存の物語は多量に再生産を続けられている。


 けれど、同時に、少しずつではあるが、こういう世界の状況を前提とした物語作品も出現しつつある。

 「AIR」や、竜騎士07氏の作品からもその意識を読み取ることは可能だ。

 しかし、それらの作品の中では、その社会構造観を伝達する手段に、洗練性が乏しく、別の理を、単に提示したようにしか受け取られなかった。

 多くの者には価値観を共有できない、醜悪なものとしてしかとらえられなかった。


 しかし、たとえば、小林有吾の「水の森」においては、その別種の価値観を肯定的に捉えられるよう意図し、表現が行われていた。
 この作品が、少数であるが、似た価値観を共有する者の心を大きく揺さぶったのは、それが故のことであろう。

 そして、「魔法少女まどか☆マギカ」においては、新しい世界観そのものが直接的に描かれるに至っている。

 それを醜悪と受け取る者もいるだろう。しかし、巧緻で洗練された形で表現された、その世界観は、

 より多くの者に、現実と、既存の物語の提示する世界観との間に生じる相違、ずれの存在を認識させた。

 そう確信する。

 もちろん、少数の先鋭的な価値観を既に備えた者にとっては「いまさら」なものであろう。

 しかし、そうでない、(おそらくより多数の)者にとっては、

 いままでそれとなく感じていた、「違和感」

 現実と、物語とのギャップ

 それを埋めていく、最初の一歩を指し示す作品となるであろう。

 それを自覚しなくても、そうなっていくであろう。


 多くの人々にとって、新たな時代を切り開いた、歴史的な物語。


 それこそが、この「魔法少女まどか☆マギカ」という作品の本質的な価値なのである。



「逆境」とその裏の「メタ逆境」


先週末、海燕さんとラジオをやった中で出た話が面白かったので取り上げてみます。


 物語の構造についての話なんですけど、物語の世界で先の展開というものは、それまでの展開、伏線などによって決定あるいは制限されるものなんですよね
 例えばシンデレラは最終的に王子様と結ばれ幸せになります。
 この展開が読者に受け入れられるのは何故か、というと物語の前半でシンデレラが継母や姉たちに不当にいじめられこき使われる、という扱いを受けていたからです。
 その「逆境」があったからこそ、シンデレラが王子様に選ばれた時に、読者にカタルシスが生まれ、納得して受け入れられるのです。
 逆に、姉たちの方を見てみると、彼女たちは、それまで母に認められ、正当な扱いを受けて暮らして来たわけです。
 それは幸せなことなのですが、そこに「逆境」はありません
 だからこそ、王子様に選ばれることはありませんでした。もしそこで王子様に選ばれていても、読者には受け入れづらいものとなったでしょう。
 物語の中では「逆境」に耐えた者が報われるべきだ、という心理が働くからです。
 この読者心理を前提として物語が作られると仮定したときに、物語には、読者心理を前提としてその後の展開が決定されていくのだといえるでしょう。
 この物語の展開の決定に影響を及ぼす力の体系を「物語力学」と仮に定義します。
 この時、物語力学に逆らった姉たちの望み(王子様に妃として選ばれる)は叶いません。
 姉たちが王子様に選ばれても読者がカタルシスを得ることができないため、普段の幸せよりも上位の望みを叶えることができない。その彼女たちは、物語の外からの視点で見ると、物語的に逆境にあるということも出来るといえます。
 彼女たちは普段から王子様に選ばれるために自分を磨いていたにも関わらず、そういう努力をしていないシンデレラに劣っていると評価されるわけです。
 その理由が何故かというと、つきつめていくと「物語の要請」とか「作者の都合」でしかないのです。
 シンデレラの姉たちのように「逆境」を経験しなかったがゆえに、自分の最大の目標を達しえない境遇をシンデレラの受けた虐待のような作中での逆境と区別して「メタ逆境」と呼ぶことにします。

 すると、この「逆境」と「メタ逆境」という考え方は、「シンデレラ」の物語だけでなく他のさまざまな物語作品に適応し得るものだ、ということがわかってきました。

 例えば、「マギ」でのアリババの境遇なども物語力学に沿った形で話が流れていると言えそうです。
 彼は、ダンジョンをクリアし、主人公であるアラジンに友として認められました。
 そのカタルシスが途轍もなく素晴らしかったのは、かつてアリババが自分の命を投げ出して怪物に襲われた女の子を救う、という英雄的行為を行いながら、アラジン以外の誰にもその価値を認められなかった、という逆境があったわけです。
 更にダンジョン内でも、ライバル相手に多勢に無勢の闘いを強いられます。
 そういう精神的、物理的両面の逆境があったからこそ、アリババがあきらめずに頑張り続け、ダンジョンクリアを勝ち取ったことに読者は納得しカタルシスを得ることが出来るわけです。

マギ 2 (少年サンデーコミックス)

マギ 2 (少年サンデーコミックス)

 同様にバルバッド編のアリババを見てみましょう。

マギ (6) (少年サンデーコミックス)

マギ (6) (少年サンデーコミックス)

 バルバッド編でのアリババは、怪傑アリババとして、盗賊団の頭目になっていました。
 そのアリババのモチベーションは、


・バルバッド国民の窮状を救う。
・過去に失いながらも再度得ることの出来たカシムとの絆を保ち続けたい。

 
この2点に集約されます。


 アリババはこの2つの目的の間で揺れ動きます。
 アリババがバルバッドの王制を廃止、共和制へ導くことを決断することが、バルバッド編の物語展開上の重要なポイントであったと言えましょう。


 王宮突入の直前の決断の時点でのアリババを振り返ってみましょう。
 この時点での彼の逆境は
 1 自分に自信が持てない。
 2 カシムとの間に大きな溝が出来ている。
 3 カシムが内戦を計画している。


1によりこれまで具体的に主体的な行動を取れず、カシムやシンドバッドの意図に沿う行動(批判的に表現するなら、彼らの言いなりの行動)を続けていました。
その中で、2の溝は大きくなっていきました。元々、カシムは王族、貴族などの権力者に対して非常に強い劣等感を持っていたため、王族の一員のアリババとの間にはわだかまりがありました。アリババが積極的にカシムとの対話を試みておれば、両者の溝は幾分埋められたかもしれません。しかしカシムとの決定的な決裂を恐れたため、アリババはカシムとのコミュニケーションを怠ってしまいした。
そうしているうちに、他国の王族シンドバッドによりカシムは盗賊団の行動理念や組織運営の杜撰さについて厳しく指摘され、自分が根本的に否定されたと感じ、その反動から自分の力を認めさせるために3のように国民を扇動し、内戦を引き起こそうと心に決めるところまで追い詰められてしまいます。


 自分が何も行動を起こさなければ、幾日もしないうちに友人のカシムが内戦を起こし、多くの国民が巻き込まれ生命を落とす。
そこまで追い込まれたアリババはついにこの逆境の力によって、自ら行動する意志を得ることになります。
アリババは、カシムの企図した内戦が引き起こされることにより多くの国民が傷つき倒れること、これが回避すべき最大優先事項として選択し、単独での王宮突入を行うことになります。

 多くの国軍兵士及び親衛隊によって守られている王宮にたった一人で侵入する、という状況は大きな逆境です。
 しかし、それが逆境であるが故に、物語力学により逆にアリババは負けません。負けたらそこで物語が成立しなくなるからです。
 モルジアナや、副王サブマド、国軍将軍、更にはシンドバッドの助力をも得て、アリババはアブマド王を失脚させ、王制を廃し、バルバッドの煌帝国への実質隷属化を意味する条約締結をも回避します。
 ここにカタルシスの発生があります。
 王宮前へ集まった国民への説明の演説の後、歓声を持って受け入れられたところでそのカタルシスは最高潮に達したと言えるでしょう。


 しかし、この行動はカシムの蜂起の意味を失わせる行為でした。

 
 この時点でのカシムの状況ですが


 ・アリババに対して「綺麗ごとばかり言う」と批判していたが、その綺麗ごとをやり遂げられてしまう。→現実として武力によるクーデターを起こす以外に国を変える方法はない、としたカシムの主張が否定される。
 ・打倒すべき国王が退陣し、王制が廃止されれば、集まった反乱軍の攻撃目標がなくなる。
 という逆境に置かれています。


 そもそもカシムの目的は
 内戦により現王族政権を打倒し自分が王となることで、権力者に対する自分のコンプレックスを解消する。
 そして同時に、現状に不満を募らせる国民の支持を得よう、という辺りでしょう。
武器商人の協力を取り付けて、武装を強化し、彼なりの勝算もあっての決断だったと思われますが、アリババの行動により、その全てが意味をなくしたわけです。

 この際に、カシムの中で国民の生活水準向上が最優先目標になっておれば、アリババの共和制導入論にも納得して引きさがることが出来たでしょう。
 しかし、カシムの中では権力者への反感からの王族排除が最優先になっていました。
 だからこそ、この時点で、逆にカシムの「逆境」が極まって、アリババとの「逆境勝負」に勝ってしまうのです。
 国民に一旦受け入れられた時点で、アリババが「メタ逆境」に置かれてしまうわけです。
 そして物語力学により、カシムの王族打倒の大号令に国民たちが呼応してしまうことになっています。
ここで一つ生じてくる問題があって、
 この国民の呼応は、物語力学上は自然な流れではあるのですが、結果的に「カシムの抱く権力者へのコンプレックス」が物語上で一番重要な扱いを受けている形になってしまっています。
 それまでの展開ではカシム視点で内面が語られることが少なく、シンドバッドにカシム自身を根本的に否定されながら、それに対する効果的な反論もされないまま、ここまで来てしまっているのが問題であって、読者は、物語の山場に来て、急にカシムの主張が受け入れ続けられることになった展開にとまどいを感じてしまうのかな、と考えています。

 カシムが悪魔のような姿へと変化してしまったのもまた、その物語力学に従った補正なんだと思います。これは読者の共感を阻害するギャップを視覚的に表現したものなのじゃないかな、と。
 しかし、思想のぶつかり合いを回避してしまった今の状況ではこれは単に力のインフレを呼ぶだけの展開に見えます
 今のままでは物語中で最大の格を持つアラジンが目覚め、「サイボーグ009」の001のように、圧倒的に強大な力を持って事態を都合よく解決するしかなくなってしまっているのかな、と懸念しています。
 こういう追い詰められた状況の中で、そこにどれだけのカタルシスを生み出してくれるのか、大高忍さんの力量に期待しているところです。

アリババの落ちた陥穽について


 今週(サンデーH22年45号)の「マギ」に置いて、カシムに扇動された国民が暴動を起こしつつあります。


マギ (6) (少年サンデーコミックス)

マギ (6) (少年サンデーコミックス)


関連記事 大高忍「マギ」における物語の流れと描写との違和感について


 結論から言いいますと、アリババは安易に共和制導入を主張すべきではなかったのです。


 その理由は幾つかあって、今回のポイントは、
 ・民主共和制には施行され実効が得られるまでタイムラグがある。
 ・理想はそれを解する余裕のあるものにしか共有されない。

 というところにあるのではないでしょうか。 


 そもそも共和制という概念は、君主制に対応するものです。君主が存在しない、という前提の政体のことをいいます。
 それだけを取って見れば、王政を廃した後、共和制へ移行する、ということは必然のことではあります。
 しかし、一口に共和制と言っても、様々な構造の政体が想定出来るわけです。
 共和制においては究極的には国家における意思決定が常に国民全員の意志によって決定されるものであるわけですが、現実にはそれを行う方法・手段は確立されていません。
 それゆえ、実際には国民の選挙によって選出された代議員による統治という形を取ることになります。アリババが主張した共和制もこの形態を取ります。
 おおざっぱに言うと、これが民主共和制です。それに対して、為政者が国民の選挙によって選ばれない形の共和制もまた存在し得ます。これを寡頭体制の共和制と言います。


 民主共和制が選挙の実施を前提とする以上、その選挙が行われるまでは、この形態を取ることは出来ません。だからこそ、アリババは暫定政府を立てることにも言及しています。
 アリババが目指す「共和制」の実現までには構造上避けえないタイムラグが生じるのです。
 状況にある程度の余裕があれば、何の問題も生じなかったでしょう。
 しかし、バルバッドでは、為すすべもなく餓死する国民が相当数出る、という極めて逼迫した状態でした。
 そして、そこまで追い込まれるまで、国民側として、何も対策を取ることが出来ていないのですよね。追い詰められてようやく王宮前に集まってきた今回は、ある意味、市民革命が起きたとも言えます。
 しかし、バルバッド国民には、主体的な意志は全くありません。日々餓死を免れるのがやっとの生活では、政治思想的な成熟を求めるなど不可能です。
 だからこそ、理想はともかく食べ物をくれ、というのが国民たちの正直な気持ちの全てであったと言えます。
 そこにカシムの付け入る隙があったのですよね。


 カシムは盗賊団「霧の団」を率いてバルバッド王政に抵抗行動を行っていました。
 その手段が正当であるとは言えないのですが、国民の、下からの主張を代弁し得る立場を獲得していました。
 アリババも同様の立場を取っていましたが、両者には大きな差がありました。
 アリババはその出自が王族であったが、カシムはそうでなかったのです。
 カシムは王族に対する強烈なコンプレックスからアリババと袂を分かちました。
 長くアリババと共に行動したカシムには、アリババの掲げる理想主義の理論的な正しさが理解出来ていました。
 しかし、理論的に正しいことが即ち全ての者に受け入れられるわけではありません。
 理想はそれを解するものにしか共有されない。カシムはその事実に気付いていたからこそ、現況において政治的に有効な行動を取ったのです。
 アリババは、民主共和制の導入により、徹底的な民主主義の実現を追求して行こうとしています。長期的な方針としてそれは正しい。
 しかし、王宮前に詰め掛けた国民の大部分が、現時点で抱いているのは、現在の王制への不満だけだったと言えるのです。
 現代日本でも、選挙でいわゆるバラマキ的な政策を掲げることによって多くの得票が得られる傾向があります。そして、政治家の失政に対しては、国民のなかに強烈な不満が生じます。
その国民、言いかえると民衆の傾向を、アリババもカシムも利用しようとしました。
 アリババは現体制を変えるという変革を主張することによりその場の国民の支持を得ました。
 しかし、カシムはアリババがまだ、国民に対して何の恩恵も与えたわけではない、という事実を強調したのです。そして、更にアリババが王族である、という事実を盾に、王族を完全に排除してしまおう、と国民を扇動します。
 双方の主張はどちらも誤りではありません。
 しかし、結果として国民はカシムを支持する反応を返します。
 この展開は、バルバッドの今、まさに現在の状況下においては、カシムの取った政治行動の方が、より最適化されたものであったということを示しています。

 「コードギアス」のルルーシュのように、アリババが王として一旦、正面から国民の非難を受けて止めてから、ゆるやかに共和制を導入していけば、より確実に実行できたのでしょう。
 しかし、アリババが王になることを受け入れなかったことにより、民衆の不満の爆発を生じさせてしまった今回の事態はまさに皮肉としか言いようがありません。

 興味深いのは、より政治家として成熟しているはずのシンドバッドが、民衆の結論に対し、驚きの表情を見せているところです。
 シンドバッドに関しては、思想的なバックボーンが未だ作中で描写されていないところですが、彼もまた理論的な正当性に特化した政治思想を重んじるタイプの政治家なのかもしれませんね。

 あとはアラジンの動向が、状況にどんな影響をもたらすのか。
 来週の「マギ」を興味深く待ちたいと思います。

祝「修羅の門」再開。

いや〜凄い。
何が凄いって、昔「修羅の門」をリアルタイムで読んでいた頃の自分の想いが凄い。

月刊少年マガジンで再開した「修羅の門」を見るだけで、当時の頃の思い出が、次から次へと迸って止まらない。止まらない。

 川原先生ありがとう。感謝の気持ちでいっぱいです。

修羅の門(31) (講談社コミックス月刊マガジン)

修羅の門(31) (講談社コミックス月刊マガジン)

月刊 少年マガジン 2010年 11月号 [雑誌]

月刊 少年マガジン 2010年 11月号 [雑誌]


当時の僕のヒーローの一人は陸奥九十九。言わずと知れた「修羅の門」の主人公である。
強いぞ、かっこいいぞ。ひゅーひゅー。


そして、忘れえぬヒーローがもう一人いる。神原将臣という。「HERO」という漫画の登場人物だ。
彼もまた、川原正敏の生み出した数多くの主人公達のうちの一人なのである。

ヒーロー 1 (少年マガジンコミックス)

ヒーロー 1 (少年マガジンコミックス)

 将臣は高校の空手道部員だったが、ひょんなことで弱小サッカー部に入部する。
負ければ廃部の弱小サッカー部を救うため、天才GKの俊郎とともに、勝利を追求していくことになる。
ところが、一回戦でいきなり優勝候補の市立船川と当たってしまう。
 将臣は空手をやってたから体力は人並み以上にあるんだけど、サッカー自体は下手くそなのだ。
 だけどマネージャーの晶とともにチームを鼓舞し、猛練習で体力をつけて下手くそなりにしつこく食い下がるディフェンスを身に付ける。
 それでも雨あられと放たれる敵のシュート。その全てを完封する俊郎。
そして、終了間際、将臣はシュートに対し身体を張って飛び込み、蹴られながらもボールをキープする。彼は叫ぶ。
 「俺達は雑草だ。だけど、雑草にだって花は咲くんだ」
そして、彼の天性のキック力は超ロングシュートを相手ゴールへ吸い込ませる。
大まぐれの一撃での奇跡的な勝利。
それが伝説の始まりであった。
 将臣はその後も試合ごと、練習ごとに力をつける。
 そして、地区大会決勝までコマを進めるのだ。
 全力を尽くした死闘は決着し、勝者と敗者が決定される。
 あのラストシーンに感じた、全てを超えた清々しさは他に例えることが出来ない。


 涙が止まらなかった。


 明日はその辺をもう少し分析してみるかもです(未定)


って、「修羅の門」の話、ほとんどしてねぇよ(笑)。

大高忍「マギ」における物語の流れと描写との違和感について

マギ (6) (少年サンデーコミックス)

マギ (6) (少年サンデーコミックス)

 週刊少年サンデー連載中の「マギ」が章のクライマックスを迎えています。今回は主人公の一人、アリババの故郷、バルバッドを舞台にした話でした。
 これが結構長い話になっているのですが、今一つ盛り上がりに欠けている印象がありました。
 7月のオフの時にも海燕さん達と話していたことで、既に海燕さんが記事で触れてらっしゃるところです。→ 該当記事
 で、物語上、クライマックスを迎えて、アリババが共和制導入を打ち出すなど、それなりに派手なことをやってはいるのですが、やっぱりどこか盛り上がり切れない印象があります。
それは何故なんだろうな、ということを少し考えてみました。


 私個人の印象として、「マギ」において作者の大高さんがミクロの話を書きたいのか、それともマクロの話を書きたいのか、そこが判然としない、というところがあります。

 そもそも、小さいとはいえバルバッドという国の体制を変革しよう、という話なんだから、マクロの話を書こうとしている、と解釈するのが妥当なように思えます。
 しかし、そう考えていくと幾つも問題点が出てくるように思えます。
 まず、バルバッドの規模が最初に想起されたよりはるかに小さいものであるようだ、ということです。
 規模的にはおそらくグインサーガで言えば自由都市(ロスやライゴール)に当たるぐらいの規模であってアグラーヤほど大きくはない、という印象です。
 それなりの規模の町が、立地的に好条件を得て、それなりに発展し自治を行っている、というイメージ。複数の町と町を結びつけて統合的な政体をつくっているようには見えない。
 何故そういうイメージを抱くのか、というと、バルバッドの政治体制から受ける印象なのだと思います。
 国民の人権を他国に譲り渡す、と言った極めて重要であるべき事案の動議に対して、反論を見せるような貴族・豪族の存在が見当たりません。この部分が、血縁的結合を元に構成されるムラを基礎としていることを強く想起させるのです。同規模のムラとムラの結合がかつて起っていたならば、対抗勢力としての貴族・豪族の存在があっても不思議ではないのですが、バルバッドにはそういう存在が全くないのです。
 カリスマ的な指導者によって体制が一つにまとまっているため、王の発言力が極めて高い、というケースも存在し得るでしょうが、バルバッドの王アブマドは、借金のかたに国民の人権を他国に譲り渡そうとするような見識の持ち主です。彼の指導力が高いようには見えません。むしろ指導力のなさそうな王として描かれています。
 物語として、そういう国の状況を憂えて改革しなければいけない。立ち上がる民衆。という流れは自然だと言えます。
 実際にバルバッド編はそういう流れになっている、とも言えます。
 アリババは反体制組織である盗賊団「霧の団」に身を置きますし、結果的にアブマド王を退位させ、共和制の導入を提示するわけで、結果的に起きている事象に着目すれば問題はないようにも見えます。
 しかし、実際に読み進めていくと大きな違和感を感じます。何故でしょうか。前述のような英雄的行為を行うアリババに主体性が無いと思わせる描写が多すぎると感じるのです。
 バルバッド編において、アリババは「霧の団」を率いて再登場したわけですが、なぜ「霧の団」の頭目になったのか、というと、幼馴染のカシムに担ぎ出されたからであって、最大の動機はカシムと仲直りをしたかったからであり、バルバッドの国政の乱れには元々関心があるように見えません。
 そして城へ乗り込んで行く際には、他国(大国らしい)の王、シンドバッドの助言を得て決意し、ジンの金属器を使い、モルジアナの助けを借りて、王の手下たちを力でねじ伏せて、王の前に立つことになります。
 当然ながらその一連の流れの中で、アリババの中に、現体制打倒、共和制導入の考えが生まれてきたのでしょう。結果的に彼がそう主張しているのだから、そうに違いありません。
 ただ、描写のニュアンスを見ると、直接的に読者が受ける印象は少し違ってくるのです。
 まず、行動を起こした直前の時点で、具体的に行動を起こせないアリババは、シンドバッドに王になれ、と言われているんですよね。直接的に言われたことには反発しましたし、結果的に王にはならない、と宣言するわけですが、行動を起こすきっかけは、他人に指摘されたからだ、という印象が何割か残ってしまいます。
 そして王の前に出るまでに、王の配下が立ちふさがるのですが、こいつらが魔法が使える、強い奴らなんですね。そいつらをアリババはジンの金属器の短剣とモルジアナの助けで蹴散らすわけです。ただ、その時にもアリババの思想は全く語られないんですね。ただ力で退ける。だから、ここでモルジアナの助けにも違和感が少し生じてくるのです。
 モルジアナはアリババによって奴隷から解放されたという過去の経緯があり、アリババに恩義を感じ助力する姿勢を取り続けています。
 単純に恩返しのつもりでやっているだけなのかも知れないのですが、彼女の言動の描写を見るに、どこかアリババに心酔しきっているようなニュアンスを感じるのです。
 この描写によっても、やはり違和感が生じてきます。
 アリババが具体的な政治方針をなんら見せないのにもかかわらず、モルジアナが彼に「王」や「指導者」としての器を期待、というか確信しているように見えてしまうのですね。
 そういったニュアンスの積み重ねが、却ってアリババの自己表現の足りなさを浮き彫りにしてしまっている感があるのです。
 そして、そういうアリババの至らなさ、についてはバルバッド編の前半で幼馴染のカシムによって既に糾弾されているところなんですよね。
 カシム自身が視野が狭いような描写がされており、実際、彼の指摘は理屈として正当さを欠いている部分があったと思います。
 しかし、彼のアリババに対し感じた「違和感」というものは、最終的にみると、実は読者の印象として共感を呼ぶものになりつつあります。
 アリババの打ち出した共和制導入、という理念に対してその正当性は認められます。しかし、その思想がどこか薄っぺらいものに感じてしまうのですよね。キャラとしての積み重ねがそこには感じられません。
それが、「マギ」のバルバッド編が今一つ盛り上がらない印象になる理由なのです。


 今週、おそらくついにカシムが再登場します。
 彼は果たしてどういう結論を出し、どういう行動を取るのか。
 そしてアラジンは目覚めるのか。


今までの違和感を全て払拭するような、むしろ効果的な伏線へと昇華するような、そんな素晴らしい展開を期待したいと思います。