「神のみぞ知るセカイ」に見る、個と小規模コミュニティとの関係性。(その3)


神のみぞ知るセカイ DVD付限定版 10 (少年サンデーコミックス)

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 さて、「神知る」について、二日続けて見てきたわけですが、今日もその続きです。

 また少し切り口を変えてみます。
 そもそも物語の本質とはどんなところにあるのでしょうか。
これについて語り始めるときりがなくなりそうなので焦点を絞っていくことにします。

 近代小説に焦点を絞ると、そこには個人を内面、外面の両方から描写することにより、現実世界においては社会に圧殺されがちな、個の存在自体にスポットライトを当てるという、一つの意義が見出されます。
 例えば、ドストエフスキーの「罪と罰」においては、主人公ラスコリニコフが、卓越した個は社会規範によって罰せられない、という彼の見出した真実に基づき、完全犯罪を企図し、殺人を犯します。
 これは、前提として、個を圧殺する社会の存在が強く認識されていたからに他なりません。
 「デスノート」の主人公、八神月などは、まさにラスコリニコフと同じベクトルのモチベーションを持ち、行動していったキャラクターだと言えるでしょう。

DEATH NOTE デスノート(1) (ジャンプ・コミックス)

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 面白いのは、ラスコリニコフの思想は、作中で大学に論文として発表しても誰にも見向きもされなかったのですが、「キラ」としての八神月の思想は、作中ではインターネットで一定の層に支持されますし、月の死後も、「キラ」として彼を祭り上げる宗教団体の存在が描かれます。
 ここに現れる差異は、作中で描かれている社会の質的な変容を示すものである、と言えるでしょう。
 現代社会は、社会に同質化しない個を尊重することに偏重しつつ変容して出来あがったものである、とそこから読み取ることができます。
 その現代社会においては、個人の直面する問題自体も以前とは質的に変容していると考えるのが妥当です。
 それでは、「デスノート」の作中で描かれている社会について、その中から読み取れる、個人の直面する、その問題とは一体なんでしょうか。
 ・個人が自由に利益を追求することにより、犯罪が横行する。
  →正直者が馬鹿を見る世界に。
 「デスノート」の作中で直接的に強調されているのはこの問題です。
 だからこそ、それを改善しようとする「キラ」の思想が支持されるのです。
 しかし、この物語からは、それと同時に世界の別の側面を見出すことも出来ます。
 もし、八神月がデスノートを手に入れることがなかったならば、どうなったでしょうか?
 八神月は一流大学に主席合格し、警視庁に入庁する、という卓越した頭脳の持ち主ですが、彼がデスノートという手段を得なかったときにも、作中と同じように世界を変えようと決断したかどうかは非常に疑問です。
 それだけの能力を持ったとしても、社会の問題点を理解し得たとしても、社会を変革しようと行動を行う、そのモチベーションが得られない社会。
 それもまた、現代日本社会の病巣として、陰の如く描きだされているのです。


 もりしげ作「フダンシズム」においても、そういった社会の特性を垣間見ることができます。


「フダンシズム」の主人公、宮野数(みやのあまた)は文武両道、眉目秀麗で、周囲からはパーフェクトプリンス、略してパープリと呼ばれている、卓越した才能を持つキャラクターとして設定されています。その辺りは、「DEATH NOTE」の八神月と同種の設定です。
 そして数は、その才能を有効に活用する意志を持ちません。
 数は、同級生の小西望のことが好きで、仲良くなりたい、と思っていますが、話しかけることすらできません。そして、ただ、姉に、女装をさせられてかわいがられる、そんな日々を送ることになります。
 彼は、そういう環境を自ら変革しようと出来ません。そういう発想すら生じることのない陥穽の底で、彼は生き続けるのです。
 しかし、やがて、物語の中で、数は自分の意志で、他者との対話を図っていくことを覚えていきます。
 その意志の萌芽、覚醒の様があまりにも美しく、愛おしく、私は「フダンシズム」を昨年のベスト作品の一つに挙げています。
 社会の孕むそういう風な問題の存在を前提として「神のみぞ知るセカイ」を見てみるに、非常に興味深い事実が浮かび上がってきます。
 桂木桂馬もまた、月や数と同様の能力を持ったキャラクターだと言えるでしょう。
 そして、彼は、月のように変革の具体的手段を与えられなかった。しかし、彼は数のように、指針を見失い迷走をすることはなかった。
 彼は、論理的な思考の末、自らの厳然たる意志を持って、現実そのものを見限ってしまったのです。


「現実はクソゲーだ。」


 桂馬の叫びは、現代社会の問題点を直視した故にこそ生じ得たものでした。
 
 その桂馬も、物語の中で少しずつ変わりつつあります。

その彼の行く末を温かく見守ること。それも毎週の私の楽しみのひとつになっているのです。

「神のみぞ知るセカイ」に見る、個と小規模コミュニティとの関係性(その2)


漫画「神のみぞ知るセカイ」の主人公、桂木桂馬についての追記です。


神のみぞ知るセカイ DVD付限定版 10 (少年サンデーコミックス)

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では何故、桂馬はそういう風に設定されたのでしょうか。
ここに、近年の日本社会の構造の特性が表れていると見ます。
自由主義が社会に定着し、個の尊重が当たり前になると、個と総体との利益の齟齬が生じやすくなります。そもそも近代以前だと、総体としてのクニやムラに、個人の意志や思想が圧殺されていたわけです。外圧が高ければ、それに対応するために、との名目(実質的にも正しいことがままある)で、一致団結を要求されるわけです。しかし、そういった外圧のような要因のない場合、初めて個人の意志や思想が尊重されるべき、というスタンスが取られることになります。
 しかし、このことにより、各個人が本来応分に分け合い背負うべき、社会に対する責任を取ることへの強制力が弱まることになります。人はただ日々パンのみに生きることをも選択できることになります。
 ニートがわざわざ定義され、話題となったのは、その端的な例だと言えましょう。
 出来うるだけ、社会への奉仕を回避し、それを敢えて請負った者、例えば政権与党などをただ徒に批判して、憂さ晴らしをする、
 「東のエデン」でも戯画的に描かれた個としての日本人、それが現代日本の大衆の似姿なのです。
 そのような現代日本では、個は尊重されます。犯罪さえ犯さなければ、そして目立たなければ、基本的に個は尊重されるのです。
 その際、大きな外圧さえなければ、極論すれば、ヒトは何ら目的や向上心を持たずとも、他者とのコミュニケーションを持たずとも、生きていけます。例え人間でなくとも人は個人として生きていけるのです。
 その社会にまさに最適化した存在が桂馬だと言えるでしょう。
 前述のとおり、彼は他者との関わりに価値を見出しません。他者との断絶を致命的なものだと感じるわけでもありません。そこには社会への貢献などかけらもありませんが、桂馬はそんなことを省みることはありません。
 決してそれは正しい姿勢だとは言えないでしょう。
 しかし、現代日本の現実にはその姿勢を受け入れる土壌があるということもまた、否定できません。
 桂馬が学校のテストで満点を取れる以上、授業中に彼が携帯ゲーム機で遊び続けることを根本的に否定することは誰にも出来ないのです。
 そういう姿勢を持ったキャラにメインの視点を置き、単純に批判の対象とはせず、むしろその立場を、ある種肯定的に取り扱う、という試みは一種の冒険です。
 一般的な道徳や倫理といったものに逆らうことになりかねない、という危惧があるからです。
 しかし、それでも、桂木桂馬はこの物語の主人公なのですよね。
 まず、それ自体が素晴らしいことだと、私は評価しています。
 そこに痛烈な社会批判の意志を感じるのです。


(多分もうちょっとだけ続きます。)

「神のみぞ知るセカイ」に見る、個と小規模コミュニティとの関係性。


 もうすぐTVアニメも始まる「神のみぞ知るセカイ」が、それに合わせてかどうか知りませんが、週刊少年サンデー本誌で、盛り上がってきております。


神のみぞ知るセカイ 10 (少年サンデーコミックス)

神のみぞ知るセカイ 10 (少年サンデーコミックス)

 この機会にこの作品の面白さについて、もう一度少し触れてみます。
 
 この作品で注目したいのは、まず、主人公の桂馬の位置づけです。
 これについては以前の日記(リンクはこちら)でも触れたところですが、もう一度少し言葉を変えて書いてみます。

 桂馬は学校の中で浮いた存在です。同級生とコミュニケーションを取ることに対するモチベーションがありません。常に(授業中も!!)携帯ゲーム機で恋愛ゲームを楽しんでいます。
 同級生たちにとって、桂馬のその態度は不快なものです。彼らは少なくとも個々に譲歩して、「同級生」というコミュニティに従属しようとしているからです。
 それなのに桂馬は一人その努力を怠っています。それは他の「同級生」たちが、その「従属すること」=社交性と捉えた場合に、桂馬が社会不適合者である、との烙印を押す、そのお墨付きを与えられるということに他なりません。
 かくして、同級生の中に、桂馬=コミュニティの中において、社会的義務を果たさない者→非難の対象となる、という共通認識が生じることとなります。
 おそらく過去に、同級生から桂馬へ「もっと同級生の輪に入るよう努力したほうがいいよ」との指導的助言が行われたであろうことは間違いありません。
 しかし、桂馬の方では、コミュニティで浮いた存在になることに対して、全く意に介しません。彼はそこにデメリットを認識しないからです。彼はゲームの世界でゲームの中の「同級生」とコミュニケーションを取っていれば満たされるからです。
 ここに深刻な問題が生じてきます。
 当然ながら、同級生の桂馬への指導的助言は、上からの目線で行われるものになります。同級生たちにしてみれば、自分が桂馬よりコミュニティのしきたりに精通しており、桂馬がそのしきたりに気付かずにコミュニティ参加を失敗し続けている、という風に捉えられるであろうからです。
 同級生にしてみれば、その指導的助言は、好意以外の何物でもあり得ないでしょう。
 しかし、桂馬の側ではコミュニティに参加する意志が無い以上、その助言は不必要な干渉でしかあり得ないのです。
 そこに大いなる断裂が生じることになります。
 桂馬はその助言を無視し続けたことでしょう。そのうち、同級生たちの助言は無くなっていきます。相手が意図を受け入れない行為は無駄だからです。
 実際、桂馬は同級生から「オタメガ」と呼ばれ、触れられない存在として扱われています。
 なまじ、桂馬は頭が良く学業成績は良いため、他の同級生たちから相当の反感を買っていることは想像に難くありません。
 これは、もっと直接的な「いじめ」のトリガーとして機能してもおかしくないファクターです。


 想像するに、過去には桂馬に対してそういったいじめ的行為が行われたのでしょう。
 しかし、桂馬は、同級生の好意に対して無関心であると同時に、悪意に対しても無関心です。
いじめが行われる一つの大きなモチベーションとして、その悪意により、対象が深刻なデメリットを被ることにより、いじめる側の精神的優位性を生じる、という要素が考えられますが、そのメリットが桂馬に対するいじめ行為によって、いじめ側に生じることはありません。
 さきほどの好意的助言の場合と同様に、直接的いじめ行為に関しても、過去に自然消滅的になくなっていき、現在の状況が構築されたのだと考えられます。

 この桂馬と同級生たちとの関係性は、現代社会における、個と小規模なコミュニティとの関係性の特徴的な部分をデフォルメし、端的に表現したものとして、高く評価したいと考えています。



 かんでたくま。は


神のみぞ知るセカイ」を


応援しています。


最近読んだもの

週刊少年ジャンプ43号


42号から連載の始まった


「LIGHT WING」が面白いです。

 サッカーもの。
 大まかな筋としてはなぜか天才的プレイヤーが無名校に入学して、やる気のないサッカー部を強くしていくというもので、まぁ、スポーツものではよくある話と言えます。
 「シュート」なんかもそうだし(この漫画の場合は部にもともと久保という天才的プレイヤーも居たですが(^^;))
 少し前に週刊少年サンデーでやってた「GOLDEN AGE」なんかはまさにその形ですね。
 ただし、サッカーは11人でやるものなので、さすがに一人で全てやってしまうとリアリティに欠けるきらいがあります。
 だから前述の「シュート」、「GOLDEN AGE」ともに、部内を変えてい新入部者は同時に3人加入しています。「シュート」は田仲、平松、白石の掛西中ゴールデントリオだし、「GOLDEN AGE」だと、唯、トラ、ナリアちゃんの旧シーサーペンツ組ですね。

 ところが「LIGHT WING」は新入部した才能ある選手は吏人(りひと)ただ一人だけです。

 いや〜無謀ですね〜(^^;。 

 しかし、吏人のキャラ設定が、その「無謀」を「逆境」へと変換しています。

 常人離れしたテクニックもさることながら、彼の最大の特徴は、圧倒的な情熱を持っていることなんですね。
 そしてそれが自然と他の部員に伝播していくのです。
 この辺は「シュート」の久保や「GOLDEN AGE」の唯にも共通する特性で、以前に海燕さんらとラジオで話題にしていたヒーローの区分でいうと「社会的ヒーロー」的な属性です。
 サッカーが11人という比較的多人数を必要とする競技であるため、そこにコミュニティとしての力学が自然に発生するため、どうしても「社会的ヒーロー」のように、正義を伝播する能力が、物語を展開する上で必要になってくるわけです。
 サッカー漫画の場合だと、その「正義の伝播」=「やる気(モチベーション)の伝播」としてストレートに捉えることが出来るでしょう。
 「LIGHT WING」の面白いところは、その「やる気の伝播」の描写方法にあります。
 久保や唯は、色々と段取りや根回しをして、やる気を出す理由を相手に論理として植えつけることによって、「やる気の伝播」を行っていましたが、吏人は違うのです。
 吏人は、ただ一緒に練習するだけで「なんとなく全力を出させてしまう」という能力を持っているのです。大宇宙的なんとなくです。理屈なんか関係ないのです。
 そこがギャグネタにもなっているのですが、とても面白いです。
 そして、吏人の極端に凄いテクニックとパワー(「リベロの武田」の武田弾丸並み?)の描写と相まって、作中で、コイツなら、コイツなら一人でもなんとか出来るかも、と思わせてくれています。
 その辺りが、実に痛快なのです。次回も楽しみ。

 かんでたくま。は「LIGHT WING」を応援しています。