「神のみぞ知るセカイ」に見る、個と小規模コミュニティとの関係性(その2)


漫画「神のみぞ知るセカイ」の主人公、桂木桂馬についての追記です。


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『「神のみぞ知るセカイ」に見る、個と小規模コミュニティとの関係性。』


では何故、桂馬はそういう風に設定されたのでしょうか。
ここに、近年の日本社会の構造の特性が表れていると見ます。
自由主義が社会に定着し、個の尊重が当たり前になると、個と総体との利益の齟齬が生じやすくなります。そもそも近代以前だと、総体としてのクニやムラに、個人の意志や思想が圧殺されていたわけです。外圧が高ければ、それに対応するために、との名目(実質的にも正しいことがままある)で、一致団結を要求されるわけです。しかし、そういった外圧のような要因のない場合、初めて個人の意志や思想が尊重されるべき、というスタンスが取られることになります。
 しかし、このことにより、各個人が本来応分に分け合い背負うべき、社会に対する責任を取ることへの強制力が弱まることになります。人はただ日々パンのみに生きることをも選択できることになります。
 ニートがわざわざ定義され、話題となったのは、その端的な例だと言えましょう。
 出来うるだけ、社会への奉仕を回避し、それを敢えて請負った者、例えば政権与党などをただ徒に批判して、憂さ晴らしをする、
 「東のエデン」でも戯画的に描かれた個としての日本人、それが現代日本の大衆の似姿なのです。
 そのような現代日本では、個は尊重されます。犯罪さえ犯さなければ、そして目立たなければ、基本的に個は尊重されるのです。
 その際、大きな外圧さえなければ、極論すれば、ヒトは何ら目的や向上心を持たずとも、他者とのコミュニケーションを持たずとも、生きていけます。例え人間でなくとも人は個人として生きていけるのです。
 その社会にまさに最適化した存在が桂馬だと言えるでしょう。
 前述のとおり、彼は他者との関わりに価値を見出しません。他者との断絶を致命的なものだと感じるわけでもありません。そこには社会への貢献などかけらもありませんが、桂馬はそんなことを省みることはありません。
 決してそれは正しい姿勢だとは言えないでしょう。
 しかし、現代日本の現実にはその姿勢を受け入れる土壌があるということもまた、否定できません。
 桂馬が学校のテストで満点を取れる以上、授業中に彼が携帯ゲーム機で遊び続けることを根本的に否定することは誰にも出来ないのです。
 そういう姿勢を持ったキャラにメインの視点を置き、単純に批判の対象とはせず、むしろその立場を、ある種肯定的に取り扱う、という試みは一種の冒険です。
 一般的な道徳や倫理といったものに逆らうことになりかねない、という危惧があるからです。
 しかし、それでも、桂木桂馬はこの物語の主人公なのですよね。
 まず、それ自体が素晴らしいことだと、私は評価しています。
 そこに痛烈な社会批判の意志を感じるのです。


(多分もうちょっとだけ続きます。)