「神のみぞ知るセカイ」に見る、個と小規模コミュニティとの関係性。


 もうすぐTVアニメも始まる「神のみぞ知るセカイ」が、それに合わせてかどうか知りませんが、週刊少年サンデー本誌で、盛り上がってきております。


神のみぞ知るセカイ 10 (少年サンデーコミックス)

神のみぞ知るセカイ 10 (少年サンデーコミックス)

 この機会にこの作品の面白さについて、もう一度少し触れてみます。
 
 この作品で注目したいのは、まず、主人公の桂馬の位置づけです。
 これについては以前の日記(リンクはこちら)でも触れたところですが、もう一度少し言葉を変えて書いてみます。

 桂馬は学校の中で浮いた存在です。同級生とコミュニケーションを取ることに対するモチベーションがありません。常に(授業中も!!)携帯ゲーム機で恋愛ゲームを楽しんでいます。
 同級生たちにとって、桂馬のその態度は不快なものです。彼らは少なくとも個々に譲歩して、「同級生」というコミュニティに従属しようとしているからです。
 それなのに桂馬は一人その努力を怠っています。それは他の「同級生」たちが、その「従属すること」=社交性と捉えた場合に、桂馬が社会不適合者である、との烙印を押す、そのお墨付きを与えられるということに他なりません。
 かくして、同級生の中に、桂馬=コミュニティの中において、社会的義務を果たさない者→非難の対象となる、という共通認識が生じることとなります。
 おそらく過去に、同級生から桂馬へ「もっと同級生の輪に入るよう努力したほうがいいよ」との指導的助言が行われたであろうことは間違いありません。
 しかし、桂馬の方では、コミュニティで浮いた存在になることに対して、全く意に介しません。彼はそこにデメリットを認識しないからです。彼はゲームの世界でゲームの中の「同級生」とコミュニケーションを取っていれば満たされるからです。
 ここに深刻な問題が生じてきます。
 当然ながら、同級生の桂馬への指導的助言は、上からの目線で行われるものになります。同級生たちにしてみれば、自分が桂馬よりコミュニティのしきたりに精通しており、桂馬がそのしきたりに気付かずにコミュニティ参加を失敗し続けている、という風に捉えられるであろうからです。
 同級生にしてみれば、その指導的助言は、好意以外の何物でもあり得ないでしょう。
 しかし、桂馬の側ではコミュニティに参加する意志が無い以上、その助言は不必要な干渉でしかあり得ないのです。
 そこに大いなる断裂が生じることになります。
 桂馬はその助言を無視し続けたことでしょう。そのうち、同級生たちの助言は無くなっていきます。相手が意図を受け入れない行為は無駄だからです。
 実際、桂馬は同級生から「オタメガ」と呼ばれ、触れられない存在として扱われています。
 なまじ、桂馬は頭が良く学業成績は良いため、他の同級生たちから相当の反感を買っていることは想像に難くありません。
 これは、もっと直接的な「いじめ」のトリガーとして機能してもおかしくないファクターです。


 想像するに、過去には桂馬に対してそういったいじめ的行為が行われたのでしょう。
 しかし、桂馬は、同級生の好意に対して無関心であると同時に、悪意に対しても無関心です。
いじめが行われる一つの大きなモチベーションとして、その悪意により、対象が深刻なデメリットを被ることにより、いじめる側の精神的優位性を生じる、という要素が考えられますが、そのメリットが桂馬に対するいじめ行為によって、いじめ側に生じることはありません。
 さきほどの好意的助言の場合と同様に、直接的いじめ行為に関しても、過去に自然消滅的になくなっていき、現在の状況が構築されたのだと考えられます。

 この桂馬と同級生たちとの関係性は、現代社会における、個と小規模なコミュニティとの関係性の特徴的な部分をデフォルメし、端的に表現したものとして、高く評価したいと考えています。



 かんでたくま。は


神のみぞ知るセカイ」を


応援しています。