岡田斗司夫講演会@同志社大学の印象(速報)

 最近いろいろ考えていることと密接に関連した内容だったと思います。
 詳細に分析して自分の中に取り込んでフィードバックしたいと思っていますが、とりあえずメモ的に少し書いておきます。

演題は「私たちは生涯、働かないかもしれない」

基本的には岡田さんの著書「評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている」で書かれている内容の補完、というか、その内容をどのように受け止め、実際に一個人として価値観に組み込み、行動の意思決定に反映させていくのか、ということで位置づけられるのかな、と思いました。

 論のポイントとして概要をまとめると、
1. 就職はオワコンである。
2. カネもオワコンである。
3. 「勇者」としての生き方を提示します。

※岡田さんが会場のスクリーンで提示してくださったレジュメとほとんど同じなのですが、3だけちょこっと変えました。

 これをどう捉えるのがよいのか、ということについて、ちょっと書き加えておきますと、「最適化」の手段の一つを提示してもらったのかな、と思います。就職や働く、ということについて、今現在の人々が、旧来の固定観念に囚われて、必要以上にしんどい目にあったり、必要以上に不安になったりしている可能性はないでしょうか、と。
 価値観のシフトを行うことによってひょっとしたら、より楽に幸せを感じ取ることが出来るかもしれませんよ、という話ですね。

 根本には、未来学者のアルビン・トフラーのいう「第3の波」によって世界の在り方が変わり続けている、という認識があって、それが表面化してきた例の一つ(二つか)として、大学卒の就職率が6割、生涯未婚率が4割、という事象があげられる、と。

 就職率が6割ということは、4割の人は就職できないわけですよね。そういう現状があるときに、例えば「頑張って努力して就職しなければならない」とだけ考えて自分を追い込んでもただ辛いだけなんじゃないかな、と。
 だって、ほぼ100%に近い数字で大学卒業したら就職しようとすると思うんですよ。でみんな必死に就職活動するわけですよね。でもその必死の人の4割は就職できないんですよ。そういう現状だともう全員就職して生活費を稼ごう、というシステム自体が破たんしているんじゃないか。
 職を選ばなければ、なんらかの定職に就けて、定年まで長く勤められる、という時代とは現状は違っているんですよね。
そもそも就職するのは何故か、というと生活するため、ですね。
自分の時間を労働力として会社へ売って、お金をもらい、そのお金でものを買って生活するというシステム。
 これは「第2の波」の工業中心に最適化されたライフスタイルなわけですが、これにとらわれる必要もないんじゃないか、という提示。実際に何にお金をつかっているか、と考えると、生活必需品では無い、何かを買うためにお金をたくさん使ってるんじゃないか、と。趣味の関係とか旅行とかって、生活に必要なものではないですよね。
実際に生活するだけだったら、そんなにお金は必要ないのじゃないか。と。
生活費を過大に見積り過ぎてないか、という話。
実例としてある女性がニートの弟の面倒を見ているらしいが、一人暮らしのコストにプラスして月2万円程度あれば、十分らしい。
 じゃあ、現代日本では、経済的自立とかしなくても、ニートとして生きる道もあるんじゃね、と。
で、運よく就職を出来た人は、ニートの人を分担して面倒を見れば、みんなハッピー。
 ただ、その際に、面倒を見る人の側のストレスを軽減するためには、ニートの人は気をつかっていい人たるべき、と。いい人になったら、近所の人から何かおすそ分けをもらえるかもしれないです。そうすることでみんな生きやすくなるんじゃないかな、と。
 それが「愛されニート」という概念。
 お金を稼ぐ人、とお金を稼ぐ人にちょっと気をつかって少しだけ元気を分けてもらう人と、役割分担すればいいんじゃないかな、と。

 就職できないのは努力が足りないからだ、就職できない自分はだめな人間だ、と考えてただストレスをため込むだけなんだったら、「愛されニート」になることは立派な就職なんだと考える、そういう選択肢もあっていいんじゃね?というお話なのかな、と。

 この辺はもうちょっときちんと筋立てて文章化してみたいところでもあります。



 最近いろいろ考えていることと密接に関連した内容だったと思います。
 詳細に分析して自分の中に取り込んでフィードバックしたいと思っていますが、とりあえずメモ的に少し書いておきます。

演題は「私たちは生涯、働かないかもしれない」

基本的には岡田さんの著書「評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている」で書かれている内容の補完、というか、その内容をどのように受け止め、実際に一個人として価値観に組み込み、行動の意思決定に反映させていくのか、ということで位置づけられるのかな、と思いました。

 論のポイントとして概要をまとめると、
1. 就職はオワコンである。
2. カネもオワコンである。
3. 「勇者」としての生き方を提示します。

※岡田さんが会場のスクリーンで提示してくださったレジュメとほとんど同じなのですが、3だけちょこっと変えました。

 これをどう捉えるのがよいのか、ということについて、ちょっと書き加えておきますと、「最適化」の手段の一つを提示してもらったのかな、と思います。就職や働く、ということについて、今現在の人々が、旧来の固定観念に囚われて、必要以上にしんどい目にあったり、必要以上に不安になったりしている可能性はないでしょうか、と。
 価値観のシフトを行うことによってひょっとしたら、より楽に幸せを感じ取ることが出来るかもしれませんよ、という話ですね。

 根本には、未来学者のアルビン・トフラーのいう「第3の波」によって世界の在り方が変わり続けている、という認識があって、それが表面化してきた例の一つ(二つか)として、大学卒の就職率が6割、生涯未婚率が4割、という事象があげられる、と。

 就職率が6割ということは、4割の人は就職できないわけですよね。そういう現状があるときに、例えば「頑張って努力して就職しなければならない」とだけ考えて自分を追い込んでもただ辛いだけなんじゃないかな、と。
 だって、ほぼ100%に近い数字で大学卒業したら就職しようとすると思うんですよ。でみんな必死に就職活動するわけですよね。でもその必死の人の4割は就職できないんですよ。そういう現状だともう全員就職して生活費を稼ごう、というシステム自体が破たんしているんじゃないか。
 職を選ばなければ、なんらかの定職に就けて、定年まで長く勤められる、という時代とは現状は違っているんですよね。
そもそも就職するのは何故か、というと生活するため、ですね。
自分の時間を労働力として会社へ売って、お金をもらい、そのお金でものを買って生活するというシステム。
 これは「第2の波」の工業中心に最適化されたライフスタイルなわけですが、これにとらわれる必要もないんじゃないか、という提示。実際に何にお金をつかっているか、と考えると、生活必需品では無い、何かを買うためにお金をたくさん使ってるんじゃないか、と。趣味の関係とか旅行とかって、生活に必要なものではないですよね。
実際に生活するだけだったら、そんなにお金は必要ないのじゃないか。と。
生活費を過大に見積り過ぎてないか、という話。
実例としてある女性がニートの弟の面倒を見ているらしいが、一人暮らしのコストにプラスして月2万円程度あれば、十分らしい。
 じゃあ、現代日本では、経済的自立とかしなくても、ニートとして生きる道もあるんじゃね、と。
で、運よく就職を出来た人は、ニートの人を分担して面倒を見れば、みんなハッピー。
 ただ、その際に、面倒を見る人の側のストレスを軽減するためには、ニートの人は気をつかっていい人たるべき、と。いい人になったら、近所の人から何かおすそ分けをもらえるかもしれないです。そうすることでみんな生きやすくなるんじゃないかな、と。
 それが「愛されニート」という概念。
 お金を稼ぐ人、とお金を稼ぐ人にちょっと気をつかって少しだけ元気を分けてもらう人と、役割分担すればいいんじゃないかな、と。

 就職できないのは努力が足りないからだ、就職できない自分はだめな人間だ、と考えてただストレスをため込むだけなんだったら、「愛されニート」になることは立派な就職なんだと考える、そういう選択肢もあっていいんじゃね?というお話なのかな、と。

 この辺はもうちょっときちんと筋立てて文章化してみたいところでもあります。