「しゃにむにGO」〜この世に生きる痛みと歓び〜


 本年5月に「しゃにむにGO」の最終巻、32巻が刊行されました。ちなみに31巻と32巻は同時発売です。何故そうなったのかは、ストーリー上の都合のようで、中身を見ればあきらかなんですが、そんなことが出来るんなら「トラウマイスタ」も4、5巻同時発売して欲しかったな、と思うわけです。(というか4巻あと少しだけ分厚くして、あと1回分多く収録して欲しかったなぁ、と)

しゃにむにGO 第31巻 (花とゆめCOMICS)

しゃにむにGO 第31巻 (花とゆめCOMICS)

しゃにむにGO 第32巻 (花とゆめCOMICS)

しゃにむにGO 第32巻 (花とゆめCOMICS)

トラウマイスタ 4 (少年サンデーコミックス)

トラウマイスタ 4 (少年サンデーコミックス)


 話が逸れました。
 で、私は先週読み始めて、昨日読み終わりました。実質4日間で29冊ほど一気に読み通してしまったわけですが、それだけの魅力がありました。
 どの辺に魅力があったのか、触れてみたいと思います。

 物語の類型としてはスポーツ物の王道といえるでしょう。
 タイプの異なる天才プレイヤー同士が激突を繰り返しながら、互いに互いを高め合っていく。
 「しゃにむにGO」の物語には多くの魅力的な人物が登場しますが、その中でも滝田留宇衣(たきたるうい)と伊出延久(いでのぶひさ)という二人の天才テニスプレイヤーが軸となって物語が展開している、そのことに異論はないと思います。

 この物語類型は決して珍しいものではないでしょう。「しゃにむにGO」はテニスを題材にしていますが、多くのスポーツ漫画で見られるタイプのものです。

 スポーツの種類にもよりますが、選手の特徴を決める要素は幾つもあって、その統合体として選手の能力というものは決定されます。故に、キャラクター設定をする際に、相反する方向に偏ったバランスを取って設定することによって、両者の特徴が際だつことになるからです。この辺は前回ラジオで触れた、魅力的であるキャラクターの一類型である「バランスよくバランスが崩れたキャラクター」という条件を自然に満たしやすくすることもあり、スポーツ漫画で多く見られます。
 
 曽田正人の「シャカリキ」なんかが典型的ですよね。

シャカリキ! (1) (小学館文庫 (そB-12))

シャカリキ! (1) (小学館文庫 (そB-12))

 自転車のロードレースでは、登坂の能力と平地でのスプリント能力が全く別の運動であるため、それぞれの得手不得手が大きな選手の特徴になるわけですが、
 作中で、主人公の坂馬鹿、野々村輝は登坂能力にずば抜けていて、そのライバル、由多比呂彦は逆にスプリント能力で群を抜く実力の持ち主、という設定がされており、実際、作中でも非常に格の高い存在として扱われています。
 そして、彼らの魂のぶつかり合いは、読み手を悉く魅了してくれました。

 「しゃにむにGO」においても、留宇衣は元ジュニアの出身で、学生テニスでは突出したテクニックを持っています。ただし、メンタル面に大きな欠点を持っています。フィジカル面でも体力、筋力については傑出したところは見られません。延久は逆に、中学時代陸上競技のチャンプだっただけあり、体力面、精神面での強さは折り紙付きです。
 (ちなみに延久は中学県大会の100mで11秒04、3,000mで8分39秒01と二冠を達成する、という描写がありますが、この記録は2007年度で言えば100mは全国中学ランキング11位タイ、3,000mは同14位にランクされます。要求される能力の全く違うこの2種目で同時に全国ランキング20傑入りしている選手は、現実には存在しません。彼はウルトラアスリートです。)
しかし、テニスは未経験のため、技術については初心者レベルからスタートすることになります。技術に関しては留宇衣とは雲泥の差です。
 この二人が高校入学を機に、運命的な出会いを果たし、そしてテニスを通じ成長していくビルドゥングスロマン。それが「しゃにむにGO」の物語の中核となります。


 その「しゃにむにGO」の独特の魅力とは何か。
 それは現代社会の本質の一側面をしっかりと描き切っていることにある、と感じます。
 着眼のポイントはいろいろと考えられますが、
 端的にまとめるならば、
 (1)小単位の社会制度としての「イエ」の存続例と解体例の対比
 (2)一部の現代スポーツ界にみられる問題各種
 
 と言った切り口を考えることが出来るでしょう。
 今回はこれに基づいて「しゃにむにGO」の構造について振り返ってみたいと思います。
 まずは(1)について触れてみたいと思います。


 (1)小単位の社会制度としての「イエ」の存続例と解体例の対比

 この観点で「しゃにむにGO」を振り返る際に忘れてはならないのは、作者である羅川真里茂さんの前作に当たる「赤ちゃんと僕」の存在でしょう。

赤ちゃんと僕 (第1巻) (白泉社文庫)

赤ちゃんと僕 (第1巻) (白泉社文庫)

 一定の支持を受け、アニメ化もされたこの作品の舞台は「家庭」でした。
 主人公である拓也は交通事故により母を亡くす。小学生の彼は、保育園児の弟、実の兄として、家庭を存続させるべく主夫として奮闘することとなる。
 重いエピソードも含んだこの物語を最終的に肯定的に描ききった経験が「しゃにむにGO」にも大きな影響を与えている、と考えられる。
 「赤ちゃんと僕」では、核家族化に伴い顕在化した諸問題が取り扱われている。
 緩衝材的な役割を果たしていた祖父母の存在が家族から切り離されたことにより、家庭内の問題に対する責任が父母に常に総てかぶせられる結果となった。ましてや、母がいなくなった家庭では、父、そして子にもその責任が大きくのしかかることとなる。
 その現実の重さを受け止めながら羅川さんは、それでも、その苦難を乗り越えていくことでしか得られない幸福を美しく描いてくれたと感じています。

 「赤僕」では榎木家内にフォーカスを絞って現代社会の家庭の実存を描き抜いた感のある羅川さんですが、「しゃにむにGO」では二つの家庭を深く描き対比する、という手法で、現代家庭の問題点を浮き彫りにしている、と言えます。
 この場合に挙げられる二つの家庭とは、「滝田家」とそして「佐世古家」です。
 あえて導入部分では触れませんでしたが、延久と留宇衣の他にも「しゃにむにGO」には多くの魅力的なキャラクターが登場します。佐世古駿(させこしゅん)はその中でもかなり重要な位置を占めるキャラクターと言えます。
 物語位置的には「第3の男」ですが、同時に越えられない壁、最強の敵役として佐世古は登場する。日本ジュニア界のトップであり、同世代では突出した力を持ち、世界に挑戦し続けている。
 「シャカリキ」で言えば、この位置に来るキャラクターはストーリー展開によって変動していたんですよね。
 鳩村、牧瀬、酒巻、そしてハリス・リボルバー
 より完成度の高い、それゆえに欠点が見えづらい描写をされる、というのが特徴のキャラクターたち。魅力的な強いキャラクターである彼らを、明確な欠点と長所を持った主人公達が打ち破ることによって得られるカタルシスは非常に大きいと言えるでしょう。
 それゆえ「シャカリキ」では多くのキャラクターがこの位置に立ち、そして野々村に、由多に敗れ去っていくことになったわけである。
 
 延久と留宇衣の前に立ちふさがる敵プレイヤーもまた、魅力的な選手達が揃っていた。
 中原・秋庭の県内最強ペアに、オーストラリア帰りの高津平太、そしてモデルでもある天才、雷殿静。
 しかし、全32巻という物語の長さを考えると、その数は非常に少なく感じます。
 それは、「しゃにむにGO」ではテニスというスポーツのみに囚われず、他の要素にも多くの描写を費やした結果であるとも言えるでしょう。
 佐世古駿というキャラクターは他のライバル達と比べても、その背景が深く綿密に描写されており、作品世界に厚みを持たせる上で大きな役割を果たしていると言えます。
 
 例えば、あだち充の「H2」と比較すると面白いのですが、「H2」では比呂と英雄の二人のライバルの実力があまりにも突出しています。敢えて第3の男を挙げるならば広田になるでしょうが、物語の構成上、彼は退場せざるを得ませんでした。(肩を負傷して、最強の敵の座から離れることとなる。)この辺はネットラジオでふれたコードギアスのユフィの退場劇とも通じるところがあるのですけれど、二人のライバルが突出してしまい、他に格の高いキャラがいなくなってしまうと、その二人の対決以外の展開のテンション自体が物凄く減じてしまうし、そうしないと話が成立しなくなってしまう、そのため作品世界が自然とせばまってしまわざるを得ないというマイナス効果が大きくなるのですよね。

H2 1 (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉)

H2 1 (少年サンデーコミックス〈ワイド版〉)


 幸い、「しゃにむにGO」は32巻という長編漫画として成立することが出来たので、佐世古に関しても深く描写をすることを可能としました。
 それが可能としたのが絶妙なキャラ配置にある、と言えます。
 この物語のヒロインは、尚田ひなこですが、彼女を巡る人間関係のクラスタが存在していて、彼女に一番近く重要な存在として挙がるのが、延久と駿なんですよね。
 ひなこを人生で最も重要な他者として認識している存在が二人いる。
 下世話な言い方をすれば、恋のライバルになるわけですけど。
 ここで留宇衣がその位置から外れるのが大きいのですよね。
 「H2」だと雨宮ひかりを比呂も英雄も好きになってしまうため、物語の中心が野球とひかりとでぶれてしまった印象があるんですよね。
 何が一番大事なの?みたいな。
 留宇衣がひなこにプライオリティを置かなかったことで、延久と留宇衣の間には純粋にテニスを残すことが出来たのですよね。
 そういう意味でも佐世古駿というキャラクターは物語上大きな意味を持ったキャラクターだったと言えます。


 そして、作中で描き出された彼の背景というのが、なかなか趣深いものでした。


 さきほど、「赤僕」の紹介でも触れた核家族化、というのは現代社会での制度として旧態然としたイメージの「イエ」が崩壊していくシークエンスの一部と言えるでしょう。
 滝田家はその崩壊がより進んだ形のサンプルだと言えます。留宇衣の父母は離婚して、母は海外で再婚しています。父親は息子に対し、苦しまずに生きることを望みますが、家庭の存続などは思考の片隅にもありません。
 逆に佐世古家には伝統的な「イエ」の考え方が根強く残っています。これは、佐世古家が地元の名士の家柄であったことに起因していると言えるでしょう。遺産の相続などを効率よく行うためには惣領を決め、家督相続を行っていくという手法に一定のメリットが生じてくるためです。
 現代社会においてこういった「イエ」の二極化という側面は現実に起こっていることでもあり、典型的なサンプルを提示することにより、より地に足のついた世界観の提示がされていると感じます。滝田家のみ、佐世古家のみの提示よりも読者の受け入れの幅を広げる効果があるのではないかと推測します。


 佐世古駿は先ほども述べたとおり、日本では同世代の中で飛び抜けた実力のテニスプレイヤーとして描かれています。ジュニア時代ライバルであった留宇衣との比較では、メンタル面でより完成されたプレイヤーとして格上の描写がされます。
 しかし、その彼は、家庭的には大きな問題を抱えていました。
 彼は、自分の言葉により母を自殺に追いやった、というトラウマを抱えていたのです。
 イエの存続のため佐世古家に入る形となった駿の母は、美しかったが、精神的に弱い性質を持っており、佐世古家になかなか馴染むことが出来なかった。そのため彼女は駿を溺愛することで心の平衡を保とうとしていた。
 駿はその重みに耐えかねて、従姉であるひなこに救いを求める。ひなこはそれを受け入れ、二人は付き合うことになるが、それを悟った母がひなこに対し、敵対的な態度を取るようになる。
 駿はそれに反発するが、それを全否定と受け取った母は絶望し自らその命を絶ってしまう。
 この過去の経験を克服した駿は老成し、精神的に揺るがない選手となった。
 彼はテニスプレイヤーとして世界を転戦するが、最終的に佐世古家を継ぐことを、現在の家長である祖母と約束していた。
 彼はイエに縛られていたのだと言える。
 そして駿は、トラウマを完全に克服していたわけではなかった。
 彼の強さは、ひなこを心の支えとして初めて成立するものであった。
 ひなこが延久を意識するようになり、駿の脆さが自然に現れてくる描写は効果として秀逸だと感じました。
 スポーツ選手が「イエ」の存在に悩まされる作品例としては、樹なつみの「朱鷺色三角」や「パッション・パレード」が挙げられますが、非常に多い類型であり、深刻でありながら比較的受け入れやすい題材であると言えるでしょう。

 
 そして、この佐世古家の描写があるからこそ、比較により、更により主題に近いと思われる、滝田家の家庭問題がより深く明確に浮き彫りにされるのだと感じます。


 子を捨てた母。妻を支えることの出来なかった父。母を知らぬ息子。バラバラの家族はしかし、息子である留宇衣がテニスを続けることにより、奇蹟の再会を果たすことになります。
 いや、それは奇蹟ではなく必然であるとしか思えない。
 それだけの説得力を持たせる羅川さんのストーリィテリングは本当に素晴らしいですね。

ということで、続きます。