「AIR」とぼくと(長文注意)

AIR ベスト版

AIR ベスト版

 聖書は全世界で読まれている書物ですよね。
私も、大学時代に全部ではないですが、多くの部分を読みました。
でも、さしたる感銘は受けませんでした。
聖書の良いところは理屈ではわかるんですよ。狩猟民族が人がましく生きるための指針とするにはよく出来た説話だと思うのです。
ただ、私にとっては、それほど価値のあるものとは感じられなかった。
エゴを剥き出しにすることのない、人畜無害を座右の銘としていた、かつての私にとっては必要のないものだった、といえる。
 ただ、世界のより多くの人にとっては、非常に価値の高いものであったことは理解出来るし、否定する気はありません。

 思うに、私にとってAIRは、キリスト教徒にとっての聖書に近い位置を占めるものなのではないだろうか。そんなことを考えます。
 AIRが私に与えてくれた最も大きなものは「許し」でした。
 FSSラキシスが仏語で「私を責めないで」と訴えたことがありましたが、それは常に私の心を支配した暴君と相似のものでした。
 心の大事な部分の欠落。それを私は常に感じて生きてきたのです。
 大切なものは大切に思うほど、私の周囲からは失われていく。「僕の地球を守って」の小林輪が書いた一編の詩「見送る夏」はまた、私の心情を映し出してくれたものでした。
 ロシアの民話「ネズナイカ」の主人公ネズナイカ魯迅「阿Q正伝」の阿Q、トルストイ「イワンのばか」のイワン。他人に蔑まれながら、その圧力を物ともせず生きる彼らは物語中では世間の誰にも完全に馬鹿扱いをされるのですが、幼い私は、その力強さに憧れたことをよく覚えています。
 私は、たまたま知識欲の旺盛な子供であったため、多くの本を読んで育ちました。
 多くの物語はハッピーエンドで終わります。それゆえ、私も最初は純然たるハッピーエンドをこそ望んで物語に触れる人間でした。
 しかし、幼くして(家族以外の)親しき存在を永遠に失った時、私の了見は、我知らず歪められたようなのです。
 ハッピーエンドは、空々しい絵空事のように空虚なものと目に映るようになりました。 全てが全てそうだ、とは言いませんが、しばしばそう感じるようになりました。

 阿Qを羨ましいと感じたのは小学生の1年の時ですが、その直後くらいに、「厳窟王」のエドモン=ダンテスに触れました。彼の怒りに同調することによって、私は自分以外の何かに責任転嫁することの快楽というものを味わうことが出来ました。しかし、エドモンは全ての復讐を終えた後、ある意味虚脱感に襲われます。少なくとも私はその虚脱感を感じました。全ては虚しいのだ、と。
 そして私はハドスン「緑の館」のリーマに巡り会います。森の中でのみ光り輝く不思議な少女リーマ。私は彼女に自分の失ったものの姿を重ねました。
 そして、それゆえに、ラストでリーマを埋葬する主人公が遺骨壺に密かに刻んだ言葉、「君なくして、神も我もなし」に衝撃を受けました。それはまさに、私の心の裡を的確に表現した言葉だったのです。
 そう。神は信じる者の前でのみ、神であるのだ。信じる心の余裕のない者には、神の存在は無価値なのです。
 次に出逢ったのは「ビルマの竪琴」でした。
 ご存じのとおり、この話の中で、水島は戦争で命を落とした兵を弔うため、日本へ帰らず、現地で僧として生きることを選択するのです。私は彼に対して不思議な感情を抱きました。幼くもあったので仕方がないのですが、私は、自分が大きな絶望を心の裡に抱えながら、自分がそれでも確かに未来に向かって生きているということを思い知らされたのです。自分は水島の立場に似た位置に置かれていると感じていました。しかし、私が同じ立場に立つならば、日本に帰ることを選択することしか出来ないだろう。それが容易に想像できたので、己に対する恥と、そしてどこにも寄る辺のない不安さを感じさせられたのです。「甘えるな。お前は恵まれているのだ」そう罵られたような気がしました。

 その後、多くの作品に触れましたが、自分の中の空虚、欠損は無くなることはありませんでした。
 寧ろ、自分の人生自体が他人のものであるかのような錯覚を覚えてきました。あたかも自分の人生を記述した本を読んでいる読者であるかのような、薄い膜に覆われたような息苦しい生活が続きました。
美少女戦士セーラームーンSのほたるに感情移入し、
新世紀エヴァンゲリオン綾波レイ(二人目)にも感情移入しました。
「私には何も無いもの」と言いながら、ゲンドウ、そしてシンジの存在を自己の基盤とする綾波は、私そのものだと思いました。
 そう、笑え、と言われれば笑えるのです。例え、本質的な意味がなくとも笑うことが出来る。
 しかし、彼女もまた爆散して消えた。
 
 やがて、私は「Kanon」に触れることとなる。
 一風変わった雰囲気の中、物語は進んでいく。話はどうやら、最初、私が一番どうでもよいと感じていた女の子、檻の中の少女、舞の周辺へと進んでいくようだった。
 舞の過去が語られる。ひとりぼっちになりたくなくて、(母を助けるために)発現した異能力のため、かえって独りになっていく舞。舞は自分を癒やすためにもう一人の自分を作り出した。だが、その存在も彼女を満たすことは出来なかった。その思いは私には素直に受け止められました。
 それゆえに、もう一人の舞が「もうすぐ来るよ……」と囁きかけたとき、溢れる涙を抑えることが出来なかったのです。
 そうか、ここで祐一と出会うために、舞は孤独だったのだ、と。
 そして二人は出逢うことが出来た。
 それだけで、何か報われる気がしたのです。
 その後、ただひたすらに再会を待ち続け、自分を檻に閉じこめた舞の気持ちも分かりました。その後の奇跡は蛇足かもしれません。しかしそれを省いても、私の心を動かす何かがそこにありました。

 そして、「AIR」です。
Kanon」により、私の心の中で何かが溶け出し、動き出したのを感じていた私は、それでもなお、あえて「AIR」に積極的に関わろうはしなかった。
発売から半年を過ぎたころ、ようやく、友人に借りてこのゲームを始めることになりました。
 「が、がお」が口癖だというのは無理があるだろう。とか「にはは」は(以下同文)とか「ぶい!」は(以下同文)とかイチイチツッコミを入れる、という普通の人の反応をしてました。最初は。
 いつの間にか、画面の中の町に入りこんでいる自分に気が付きました。不思議な感覚。現実の人間と同等の質感を持って、観鈴を、往人の存在を感じている自分がそこにいました。
 最初は佳乃の話。まぁ普通の話だなぁ、と思いつつ終了。
 そして美凪とそして、みちるの話。
 「飛べない翼に意味はあるんでしょうか……」そう呟いた彼女の心の痛みは確かに私の心の痛みだった。
 私もまた、自分の心を偽って、自分の意に反した生き方をしてきた自覚があった。
 私は飛べなかった。だからこそ自分の生き方に意味を見いだせなかったのだ。
 美凪は、記憶の混乱した母の前で、死んだ妹みちるの身代わりとして生きていた。そしてみちるの魂と町で出会い、 毎日のように楽しく遊んでいた。みちるはそれをして「夢」だと断言する。そして彼女は断言する。「夢は覚めなければいけない」
 みちるの言うことはわかる。私も幼い頃からずっと思っていた。このままではだめなんだ、と。
 そして、美凪の夢が覚める時が来る。
 みちるは消え、美凪は自分として歩み始める。その美凪に対して、みちるは優しかった。
 最後まで美凪を励まして、そして消えることが、美凪に逢えなくなることが、寂しくて辛くて、でも笑って、笑いながら消えた。
 僕は泣いた。みちると逢えなくなるのが寂しかったからではない。
 そのみちるの、美凪に対する優しさが嬉しかったのだ。
 そのみちるの優しさは、美凪の優しさの裏返しだったからだ。
 美凪がみちるに注いだ想いがみちるに確かに伝わっていたからだ。
 僕はあの子に対して、何もしてやれなかった。
 だけど、あの子はひょっとして、そんな僕から何かを受け取ってくれていたかもしれない。そう感じることが、どれだけ僕の救いとなったことだろう。

 そして、観鈴だ。
 親しい相手の前で癇癪を起こしてしまうという心の病いを持つ彼女は、話が進むにつれ、僕の近しい存在になっていった。
 おかしなことばかり喋る、頭の弱い子、というイメージは徐々に覆されていく。
 極めつけは、往人を失った後の台詞だ。
「私達は、ずっと他人に迷惑をかけないように死んできたんだ」
正直、震えました。
 観鈴は、単に物事を深く考えないで喋っていたのではなく、己の絶望から意のままに生きることを諦め、出来るだけ周囲に迷惑をかけないように独りで生きてきていたのだ。
 それは、まさに、僕の生き方そのものだった。
 そして、それは彼女のせいではない。
 前後関係は忘れましたが、神奈備命のエピソードで、観鈴の病気が前世以前のしがらみから来る呪いによるものだとわかります。
 荒唐無稽な話ではありますが、このストーリーに触れて、ほぼ初めて、私は自分の境遇から自然に逃避出来た気がします。
 そしてラスト。観鈴は命を失います。この展開が非難の対象になる、というのも理解は出来ますが、私は全く別の立場をとっています。何故なら、観鈴は己れの記憶をなくすことにより、本来その器の許容量を遙かに超えるはずの「翼人の記憶」すなわち「この惑星(ほし)の記憶」を一時的に受け止めることが出来、それにより呪われた輪廻から抜け出すことが出来たからです。
 ラストの少女の描写(私はアニメと違い、彼女が志野彩香であるという説を採っていますが)は、観鈴が負の輪廻から抜け出すことの出来たことの証しだと思っています。
 呪いの呪縛を解き放たれた翼人の記憶は再び地球へと還りました。それにより、過去の失われた全ての人も地球へと還ったことが示唆されます。
 それにより、心の底から私は救われた、と感じました。

 だからこそ、あの充実感は何にも代えがたいものだったのです。

 残念ながらアニメAIRのラストにはそのニュアンスはほぼ失われていました。頭で考えれば、ほぼ同じ結論に辿り着けるのは事実です。しかし、能動的に頭で理解しようとする、というプロセスを経るならば、私が聖書を読んで得られるものとそれほど変わりはありません。
 私は、心で感じさせてくれた、という点でゲームの「AIR」の総体に圧倒的な評価を与えるのです。
 アニメの「AIR」はラストを除き、ほぼ完璧に原作ゲームのニュアンスを再現したという点で高い評価をしています。部分的には遙かに原作を上回っています。しかし、総体としては遙かに原作を下回っていると感じてしまいます。その辺はもの凄く個人的な評価になりますけどね。