――「なぜオタは「このエロゲは泣けるから抜き目的じゃないから」と

私は俗に言う鍵っ子(Keyのゲームの熱狂的ファン)ですが、そこに辿り着いた経緯として、DQ、FFは面白いけど、シリーズを重ねるごとに飽きてきた。ストーリーゲームに質的な革新を求めていたのですよね。だからこそ弟切草の火傷エンドのナオミの壊れ方に衝撃を受けたりしていたわけなんですけど、Kanonをやった時の衝撃はそれをさらに超えるものでしたね。エロなんていらねぇし。というか真剣に邪魔に思ったですね。そんなものを求めてKeyのゲームをやってないし。
 そして、AIRのラストの夕陽は、ドストエフスキーの「罪と罰」のラストの夕陽と同等のまばゆさを持っていた。
 文章は稚拙だ。シナリオは構成が変。冗長で無駄な部分が多すぎるし、整合性がなく破綻している。キャラ絵もアクが強くて万人受けは到底しない。しかし、それでもなお、PCのちっぽけな画面を通じて、僕はこの惑星の経てきた全ての時と一体化する感覚を覚えた。それは途轍もない快感であり、途方もない幸福感であった。
 例えば、「硫黄島からの手紙」とか「今、君に会いに行きます」とかを見てもある程度の満足感を得ることは出来た。だが、「AIR」で得たほどの満足感を他で得られることは極めて少ない。
 だから私はゲームとしての「AIR」を賞賛するのだ。(同時にアニメの「AIR」については評価するが、その快感を得られないという一点において原作には及ばない、と感じています。)
 まぁ、確かに「罪と罰」も評価しますけどね。本来エロゲと文学作品を比較してどうこう言うもんじゃないとも思います。
 あと、私は「Kanon」であり、「AIR」であるから賞賛するのであって、泣きゲー一般を賞賛するわけではありません。同じKeyでも「CLANNAD」については一段も二段も低い評価をしています。ことみのシナリオは例外的ですが。あれは人と人の繋がりが時と空間の断絶を超えうるという意味で、AIRの魅力に通じるところがありました。あくまで限定的であったのが弱いですが、私にとっては個人的に好きなシナリオであります。完成度はやっぱ一般の作品に比べて低いとは思いますが、同等以上に楽しめたと思います。

 まぁ、その辺は出来のいい悪いじゃなく、内容の好き嫌いの問題だと思うので、他人に押しつけるつもりは全くないです。その辺わかってもらえたら嬉しいですけど。