ボルト関連

tei_tarakuさんのコメント


おもしろいですね。確かに、朝方みていてぼくも感じたのですが、限界に迫っているんだという感じがしなかったんですよね。
回りが速かったのもあるのでしょうが、みていて「速い」とまったく感じませんでした。いや、まだまだいけるだろう、と思えてしまうような走りだったのかもしれません。
ゾーンに達していないと、ぼくも感じたのだと思います。
うまくいえませんが、誰の手も届かぬほどの頂上に立つものを、究極でないと感じてしまう、天の才を眠らせた人の才をみると身体が震えてしまいます。天才たる(そうだと感じる)ものは、ヒトであればあるほど欠けていると感じるものなのかもしれませんね。

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http://d.hatena.ne.jp/kande-takuma/20090817


 ですよね。限界はまだ先に見える。
 世界最高峰でありながら、芸術品のような洗練された美しさは感じない。
 でも、それがかえってボルトの資質の大きさを明確に感じさせるのですよね。
 あれほど突出しているのに、特化されていない。だとするともし、特化されたときに、どれだけのパフォーマンスを彼が見せるのか。


 1洗練されたボルト>>2現在のボルト>>3他の洗練された世界的選手>>4洗練された日本選手


 今回の世界陸上で言えば上記のような図式があって、陸上100mのような運の要素の介在しにくい種目の場合、世界記録を出すこと自体に凄まじい洗練を必要とされるのですよね。なので通常は、世界記録を樹立したとしても、2の段階までしか知覚できないはずなのですよ。でも、今回も、前回の北京五輪も、ボルトの走りは、確実に1の存在を実感させてくれるような走りなんですよね。
 これは、漫画等フィクションにおいて、キャラクターの持つ才能、潜在能力を際だたせる手法として王道となる位置づけなんですけど、やり過ぎると、リアリティが無くなってしまうという欠点があるんですよね。
 例えば「奈緒子」という漫画の主人公、雄介は高校生時に既にフルマラソンで五輪選手と同等以上のパフォーマンスを見せるし、奈緒子は大学レベルとはいえ、短距離と長距離で同時期に2冠を達成するという有り得ないことをやってのけています。学生の陸上競技のレベルというものがさほど認知されていないのか、あまりツッコミは入らなかったようですが、元陸上部の私からすると、あまりにも有り得なすぎだなぁ、と。


 でも、現実世界で、そういう今までの常識を覆すボルトのような存在を実際に見てしまうと、ただ驚くほかないよね、と。現実がフィクションに追いつこうとしているみたいな変な違和感があります。