第3回海燕オフ報告書その2 「ゼロ年代の物語における「契約」」

 さて、このオフ、なんせ2日間朝から晩まで起きている時間はずっと話をしていたわけで、グイン・サーガ以外にもいろんな話題がありました。
その中でほぼ全員が参加して語り合われた話題が「ゼロ年代の物語における「契約」について」の話題ですね。実に興味深い話題でした。
 いずみのさん、海燕さんが既にそれぞれブログできちんとまとめていらっしゃいますので、個人的な感想を少しだけ書こう、と思います。
 90年代中期以降、インターネットの普及により、並行して存在する多くの価値観に触れる機会が急速に増えました。
 また、同時に、ネットには、あらゆる情報があふれています。その中でいかに生きていくべきか、ということは現在、いわゆるゼロ年代における重要な課題であると実感しています。
 「新世紀エヴァンゲリオン」で、碇シンジは、TV版のほぼ全編を通して迷い続けます。 彼は父、ゲンドウに、エヴァ初号機に乗れ、と命令される。しかし、同時に、「でなければ帰れ」とも言われるわけです。厳密には、完全なる強制ではなく選択肢が与えられているわけですね。
 実際にシンジはこの後、何度も逃亡を繰り返す。彼に、絶対的な強制力が敢えて化せられなかった結果、自分で自分に行動の責任を取らなければならなくなった。しかし、自分で自分の行動を決定する絶対的な理由を見つけることは困難なんですよね。だから迷う。そしてシンジ君は、最後まで答えに到達することが出来なかった。

 さらに以前の作品だったら、シンプルに父の命令を受け入れるか、その命令に対応したアンチ命令的な行動理念を獲得して、ストーリーは進んでいったのではないか、と思う。

 ただ、エヴァではキャラクターの内面を詳細に描こうとしていました。そういう作劇方法もあって、前述のようなシンプルな結果にはならなかった。シンジは葛藤するが、それ故に結論に至ることはなかったわけです。

 エヴァにおけるシンジがそういう描かれ方をしたその背景に、前に述べたネット普及による影響はあると思うのです。

 膨大な情報、互いに相反するがいずれも説得力のある言説、理論、価値観。似通っているが微妙に異なる言説、理論、価値観。その存在に触れた上で、自説こそが正しいのだという確信を持って行動することが、困難になってきている、そういう面の現れではなかったか、と思います。

 エヴァでシンジ君は最後まで信じられる理論には到達できなかった。TV版のラストでは「僕はここにいてもいいんだ」という結論には到達したが、形而下の事象として、彼が何を為し得たかは提示されないままであった。
 劇場版のラストでも、最後に残った自分以外の個としての人間、アスカの首を絞めようとして終わる。そこに建設的なものは提示されなかった。

 だからこそ、現代の物語において、主人公が行動を起こすためには、まず決断ありきなのだ、というのは解りやすい流れだと思いました。

DEATH NOTE」の八神月は、人の死を操ることの出来るデスノートを手に入れて、ほとんど葛藤なしに、その力を行使します。そのダイナミズムがこの作品の最大の魅力の一つとなっています。凶悪犯罪者を殺していくことにより、犯罪抑止に繋げ、より平和な世界を創り上げていく。手段が「殺人」であるだけに、月の行動理念は決して全面的に肯定出来るものではありません。少なくとも刑法では殺人罪の構成要件に該当する可能性が非常に高い行為であると言える。
 にも関わらず、八神月はデスノートによる殺人である「裁き」に対してその是非に対する葛藤をほとんど行わないのです。1巻の最初の頃を除いて、月は「裁き」に対して最善の行為だと確信しきっているように見える。

 あらゆる価値観の並列化、可視化による擬似的な相対化により、一意な自己の行動理念の設定がより困難になった現代に置いて、それを成すには、割り切った「決断」が必要である。「DEATH NOTE」の八神月というキャラの描かれ方から、そういったメッセージを読み取ることは可能であろう。

 そういった現代、いわゆるゼロ年代の状況に置いて、有効な作劇手段として「契約」という概念が重視される、ということもわかりやすい。
 
 オフの会話の中で出てきた話ですが、
 前提として、物語の中であるキャラクターが行動を起こすためには一般的に「目的」と「その目的を成すための手段(能力)」が必要となる。
 その必要条件である「目的」あるいは「手段」、またはその両方を持たず、行動を起こすに至っていないキャラに対して、「契約」はそれを強制的に与えることの出来るファクターになるわけです。

Fate Stay Night」の士郎とセイバーの契約は「正義の味方を継ぎたい」という「目的」を持った士郎に「マスターとしてセイバーを使役し聖杯戦争に参加する」という手段を与えることにより、今まで学園に埋没していた士郎を戦いの表舞台へ立たせるわけです。

コードギアス 反逆のルルーシュ」に置いても、「世界を変えたい」という「目的」を持ったルルーシュにC.C.が「絶対遵守の能力であるギアス」という「手段」を与えることにより、変えられぬ運命、日常に厭いていたルルーシュが、一人での世界への反逆を開始するわけです。

 設定としてコンパクトかつ必要十分に機能するわけですね。

 こういう「契約」パターンは、いわゆる「巻き込まれ型」の一類型と言えるでしょう。オフの際でも指摘されていましたが、このパターンの場合、必ず「再契約」の機会が付与されるのですよね。
 最初は訳が分からないうちに「契約」を結ばされるわけです。なぜならちょっとばかりその契約の是非を考えたとしても正解が出ない、という前提条件があるからです。
 だからこそ、最初の契約のまま、幾らかのイベントをこなす中で、状況の把握、あるいは精神的な成長、パートナーとの間の信頼の獲得などを経た上で、再度、契約の機会が与えられることによって、より能動的なドラマとしての外形を完成させるわけです。

 ルルーシュは皇帝シャルルとの戦いにおいて、C.C.が記憶を失うことにより、彼女との契約を一旦無に帰されることになります。
 C.C.はルルーシュと共に在り、そして「自分自身として死ぬ」ことを望んでいた。だが、 彼女は全てを忘れ、幼い少女に戻ってしまう。
 しかし、ルルーシュは記憶を失ったC.C.をその傍らに置き続けます。
 以前のルルーシュであれば、自分に取って役立たずになったC.C.など切り捨ててもおかしくはなかったと思います。しかし、ルルーシュはそうしなかった。「運命をともにする」という契約をむしろ彼から再提示までするわけです。そこには、「独りではなくなった」ルルーシュの成長と、再び記憶を取り戻すはずだというC.C.への信頼が生まれていることが見て取れます。

 まさに、「契約・再契約」のファクターが十分に機能した例だと言えるでしょう。

 私も、今書いている話で契約・再契約のパターンを採用しようとしています。一度は没にしようとしたのですが、作劇上の段取りをかなりの部分、圧縮できるのですよね、これを採用すると。その有効性を肌で実感しています。