グイン・サーガについて

ちょっと時間が取れませんでしたので少しずつになりますが、グイン・サーガについて書いて行こうと思います。

先日、グイン・サーガのアニメ化について記事を書きました。
その際に約1年前のエントリー「AIRとぼくと」を読み返しました。

その時、物凄く違和感を感じました。
あれ、「グイン・サーガ」について全く触れてなかったよ、と。

「AIR」を私にとっての「聖書」となぞらえ、そこに至るまでの過程を綴ったという内容を考えれば、グインについてそこで述べるのは蛇足になるかもしれません。しかし、1年前、このエントリーを書いた時は、そんな判断さえくださずに、自然に外して考えていたのですよね。

そこで無視されるということは、私の中で、グイン・サーガはそれだけ小さな存在であったのだろうか。

それは違う。

グイン・サーガのアニメ化についての記事中では、「グイン・サーガの世界は第二の故郷でした。」「 私の青春時代(そんなものがあったとしたら)に多大な影響を与えた作品です。「AIR」に出会うまでにおいては、あきらかに人生最大の影響を受けた作品と言えるでしょう。」などと書いていますし、それは実感としてあります。

そういう齟齬がなぜ生じているのか。

海燕さんやペトロニウスさんのグイン122巻についての記事を読ませていただいて、目の鱗が取れた、というか、自分の固定観念の一つがひっくり返った、と感じている今ならば、その私自身の矛盾の理解にたどり着ける、と言いますか、たどり着けた、と感じています。

 要点だけとりあえずメモ的に書き出しておくと、

 「グイン・サーガ」はかつて私にとっては現実とほぼ等価であった。
 「グイン・サーガ」が登場人物の裏(というか本来外には見せない部分)を強調して描写するように変化していった。
 「グイン・サーガ」の文体が徐々に変化し、近年では、内容の解釈がより千差万別に渡って可能になった。
 「神楽坂倶楽部」との出会い。
 私の中での作者に対する、強烈な固定観念の発生

 現実世界でのトラブルに伴う、ある価値観の崩壊。

     ↓

 「グイン・サーガ」を読む際における、強力なフィルターの形成 

      
 結果、「グイン・サーガ」が私に取り、ネガティブな価値しか持たないと知覚されるに至る。

 そして、107巻で読むのを中断する。


 私はシルヴィアの問題(それだけではありませんが)をこの現実の問題としてストレートに捉えすぎて耐えられなくなったのですよね。かつて私は、グインとしてシルヴィアを受け入れられず、また、別の観点ではシルヴィアとして、「正しい」ケイロニア宮廷に構造的に踏みにじられた。
 自分をだぶらせて考えた時に、それはあまりに受け入れがたい「現実」だったのです。